第3章
澄んだ秋の空気が桜ヶ丘の街並みを包む、土曜の朝。私はまるで引っ越し難民のように、使い古したキャリーケースを引きずり、神谷瑛斗のマンションの前に立っていた。赤褐色のタイルが陽光を浴びて輝く瀟洒な建物は、まさに「青川理工大学の成功した卒業生」を体現している。対する私の全人生は、たった二つの鞄に収まってしまうというのに。
『……やるしかない、か』
インターホンを鳴らす前に、がちゃりとドアが開いた。現れた瑛斗は、ラフなジーンズにカットソーという出で立ちが、不公平なほど様になっている。
「おかえり」
彼はそう言って、すぐに顔を赤らめた。
「いや、その……ようこそ、一時的な研究居住地へ」
『うまいこと言ったつもりか、僕』
だが、彼の頭上を漂う思考は、雄弁に本音を語っていた。
『家……ここが、本当に彼女の家になればいいのに……』
招き入れられた部屋は、息をのむほど素敵だった。床から天井まである大きな窓から柔らかな光が溢れ、モダンでありながら温かみのある空間は、まるでインテリア雑誌のグラビアから抜け出してきたかのようだ。
「恵莉奈、主寝室を使って」
瑛斗が廊下の先を指差しながら早口で言った。
「僕は――」
『一番いい部屋を……快適に過ごしてほしい……今日からここが、彼女の家なんだから……』
「ゲストルームで十分よ」
私は彼の言葉を遮った。彼の思考に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら。
彼は何か言いたげだったが、私はすでにキャリーケースをごろごろと転がし、小さい方の部屋へ向かっていた。
そのゲストルームは、こぢんまりとして明るく、小さな中庭が望める完璧な空間だった。荷解きを始めると、コン、とドアの枠がノックされる。
「手伝おうか?」
私は、彼が明らかに私のために空けてくれたクローゼットのスペースに、数少ない服を掛けていた。彼の思考が、すぐに流れ込んでくる。
『僕の服の隣に、彼女の服が……新妻みたいだ……すごく、しっくりくる……』
『新妻、ですって?』
思わず吹き出しそうになったが、彼が私のセーターの畳み方を真剣な眼差しで見つめているのに気づいて、ぐっとこらえた。
「あなたって、すごく……丁寧なのね」
私は彼の几帳面なTシャツの畳み方を真似ながら言った。
その瞬間、彼の表情が微かに変わった。
「クローゼット、全部使っていいよ」彼は思わずといった風に口走った。「いや、このマンション全部」
彼の顔が、耳まで赤く染まる。
「……研究のために、だけど」
私は笑いを噛み殺した。
『ええ、もちろん、研究のためよね』
夕方になる頃には、私の緊張は頂点に達していた。たとえ研究目的だとしても、偽装結婚の相手の両親に会うというのは、あまりにもリアルすぎる。瑛斗の家族に恥をかかせないようにと、控えめで上品な服に着替えるのを三度も繰り返した。
緑野区の住宅街は、まさに想像通りの場所だった。完璧に手入れされた芝生と、安定した暮らしを物語る家々。私たちが玄関ポーチにたどり着く前に、瑛斗の母親がドアを開けてくれた。
「恵莉奈ちゃん!」
彼女はバニラのように甘い香りと共に、温かいハグで私を包み込んだ。
「やっと会えたわ! 瑛斗ったら、何か月もあなたのことを隠してたのよ!」
『何か月も?』
瑛斗の焦った思考が聞こえる。
『母さん、もう彼女を自分のものみたいに……いいぞ、二人にも彼女を好きになってほしい……』
瑛斗の父親は物静かだったが、同じように歓迎してくれた。私の研究について知的な質問を投げかけてくれる間も、瑛斗の思考は実況解説を続ける。
『父さん、感心してる……当然だ、彼女は聡明なんだから……』
彼の家族の温かさは本物で、胸が一杯になった。家族だけの冗談に私を混ぜ、瑛斗の恥ずかしい赤ちゃんの頃の写真を見せては、まるでずっと昔からの家族のように接してくれた。
夕食の最中、瑛斗の母親が美しいマグカップでお茶を出してくれた。縁に可憐な青い花が描かれた、白磁のカップだ。
『彼女がいつか訪ねてくることを願って買ったマグカップを、彼女が使ってる……すごく、似合ってる……』
「それ、瑛斗のお気に入りのマグカップなのよ」
母親が何気なく言った。
「誰にも使わせないの。食洗機に入れるのさえ嫌がるんだから」
私は瑛斗の方を見たが、彼は急に皿の上の料理に夢中になっていた。
『私のことを考えて、これを買ったの?』
その事実に、名付けようのない感情で胸が締め付けられた。
アパートに戻り、私たちはコーヒーテーブルの上に研究資料を広げた。ノートパソコン、専門誌、論文の束が、ソファに座る私たちの間に壁を作っている。だが、絶えず流れ込んでくる彼の思考のせいで、神経可塑性の実験手順にほとんど集中できなかった。
『集中すると眉間に皺が寄るんだな……有機化学の授業の時とそっくりだ……なんて、綺麗なんだろう……』
私は無意識に額に触れた。
「私、考えている時って本当に眉をひそめてる?」
瑛斗がはっと顔を上げた。
「声に出てたか?」
『しまった』
「ええと……言ってた、かも」
私は嘘をついた。
私たちは仕事に戻ったが、私は彼の視線や身振りの一つ一つに過敏になっていた。そして、次の思考を読み取った時、私の脈拍は大きく跳ね上がった。
『あの髪を、耳にかけてあげたい……でも、親密すぎるか……僕たちは、ただの同僚なのに……』
――試してみよう。
私は何気ないふりを装い、彼が想像したのとまったく同じ仕草で、髪を耳にかけた。効果は、てきめんだった。まるでスイッチが入ったかのように、瑛斗の手がすっと伸び、私の髪を一房、優しく耳の後ろへとかけてくれる。彼の指先が、肌を掠めた。
二人とも、固まった。
触れた箇所から熱が生まれ、全身に広がっていく。一瞬、私たちはランプの柔らかな光の下で、ただ見つめ合った。
「ごめん」
彼は弾かれたように手を引っ込めた。
「なんで、こんなこと……」
『彼の思考を、行動に移させることができる。これは、危険だわ』
翌日、研究室で、私たちは研究という名の現実を突きつけられた。私が瑛斗のこめかみに脳波測定用の電極を取り付けていると、彼の思考がすぐ側ではっきりと聞こえる。
『バニラの香りがする……大学の頃と同じだ……指先が、すごく優しい……』
『また大学のこと。あの頃、一体何があったっていうの?』
彼の思考の温かさに気を取られ、電極を一つ、貼り損ねそうになった。
「ベースラインの数値は良好よ」
努めて平静を装った声で言ったが、自分の手がわずかに震えているのがわかった。
やがて、コンピューターの画面に私たちの同期した脳波パターンが表示されると、指導教官である田中教授でさえも驚愕の声を上げた。
「驚異的だ」彼は画面を食い入るように見つめ、息をのんだ。「被験者間で、これほど完璧な脳波の同調が見られたことはない」
瑛斗と私は、視線を交わした。そして、聞こえてくる。
『文字通り、僕たちは同調している……まるで、運命みたいだ……』
『運命』。その言葉は、セッションが終わった後もずっと私の心に響いていた。
その晩、私は研究室に一人、遅くまで残っていた。表向きはデータの整理ということにして、本当は、今日一日で知ってしまったすべてを処理しようともがいていたのだ。瑛斗から読み取った思考の一つ一つが、単なる仕事仲間としての興味を遥かに超えた、深い感情の絵を描き出していた。
私は研究ノートをめくった。そこには、私たちのセッションの記録が几帳面に書き留められている。
『被験者は偽装結婚シナリオに対し、前例のない感情的投資を示している』
ペンを、ページの上で止める。
『もし、彼にとってこれが、まったくの偽物じゃなかったとしたら?』
その時、静寂を破って携帯電話が鳴り、私は思わず飛び上がった。
「恵莉奈?」
受話器の向こうから聞こえる瑛斗の声は、温かかった。
「研究室にジャケットを忘れてきたみたいなんだ。取りに戻ってもいいかな?」
部屋の向こうに目をやる。彼が数時間前に脱ぎ捨てた紺色のジャケットが、椅子に無造作に掛けられていた。そして突然、先ほどの彼の思考が蘇る。
『彼女を抱きしめたい……バニラの香りがする……』
心臓が、早鐘を打ち始めた。彼が、ここに来る。彼の気持ちをすべて知ってしまった今、彼とどんな顔をして会えばいいのか、わからなかった。
『全部聞こえるって、彼に言うべき? 知らないふりを続けるべき? 私に本気で恋をしているかもしれない、この偽物の夫に対して、一体どうすればいいの?』
「恵莉奈? まだいるか?」
「ええ」私は何とか答えた。「上がってきて。ここにいるから」
電話を切りながら、私は彼のジャケットを見つめていた。明日の神経実験は、きっと今日よりも、もっとずっと複雑なものになるだろうと悟りながら。










