第2章
三ヶ月前
私はキッチンで鼻歌を歌いながら、クリスタルの花瓶に白い薔薇を活けていた。明日で祐真が私の指にプラチナの指輪をはめてくれてから、ちょうど五年になる。何もかも特別なものにしたかったのだ。
「小夜?」
背後から聞こえた祐真の声は、珍しく静かだった。
振り返ると、いつもの温かい笑顔が見られると思っていた。だが、彼の表情は真剣で、険しささえ浮かんでいた。カウンターには携帯電話が置かれている。深夜の電話で彼がそんなことをするのは、あり得ないことだった。
「どうしたの?」
心配になって、すぐに尋ねた。
「シンガポールとの取引で何かあった?」
「座って」
彼は椅子を一つ引いた。
「話があるんだ」
突然、薔薇が手の中で重くなった気がした。
「祐真、なんだか怖いわ」
「俺の家族について、話さなきゃいけないことがある。信託財産についてだ」
私は腰を下ろした。心臓が速鐘を打ち始める。祐真は家の事業について話すことなど滅多になかった。鳴瀬家にはほとんどの国よりも古い歴史を持つほどの資産があったが、その詳細は常に固く閉ざされていた。
「百五十億円の信託のことは知ってるよな」
彼は言ったが、それは問いかけではなかった。
もちろん知っていた。鳴瀬家の人間と結婚したからには、いずれ自分たちのものになるその資産について知らないはずがない。。でも祐真はいつも、もっと歳をとるまで心配する必要はないと言っていた。
「……条件があるんだ」
祐真は続けた。
「従わなければならない、ルールが」
「どんなルール?」
彼は疲れ切った様子で顔をこすった。
「うちの家には、忠誠心のテストっていうものがある。結婚して五年後に行われるんだ。配偶者が金目当てじゃないことを確かめるためのものだ」
私は瞬きをした。
「テスト?」
「古臭いやり方だってことは分かってる。でも、何世代にもわたって続いてきたんだ。夫婦双方が、どんな困難にも耐えうる愛情を持っていることを証明しなくてはならない」
祐真は私の手を握った。
「夫は危機的な状況を作り出す。それも、大きなやつを。そして妻は、そのすべてを通して忠誠を誓い続けなければならない」
「どんな危機?」
私の声は、思ったよりもか細く響いた。
「たいていは不貞行為だ。あるいは、そう見せかけること」
祐真の親指が、私の指の関節をなぞった。
「一年間、俺は……浮気をしているふりをしなければならない。そして君は、それに反抗せず、家を出ず、誰にもそれが嘘だと告げずに、耐え抜かなければならないんだ」
その言葉は、氷水のように私に浴びせられた。「一年も?」
「テストに合格すれば、俺たちはすべてを相続する。百五十億円、その全額をだ。もし失敗すれば……」
彼は肩をすくめた。
「俺たちは何も手に入れられない」
私は彼を見つめた。
「もし、私にできなかったら?もし、私が出て行ったら?」
「そうなったら、俺たちは完全に勘当だ」
祐真は私の手を握る力を強めた。
「小夜、俺にはあの金が必要なんだ。事業がまずいことになってる。本当に、まずいんだ。投資に失敗して、あの信託財産がなければ、俺たちはすべてを失うかもしれない」
「どれくらい、まずいの?」
「借金を返せなければ、刑務所に行くことになるかもしれない。それくらいだ」
部屋が少し、ぐらついた。堅実で、成功しているはずの私の夫、祐真が、私たちの人生そのものが、砂上の楼閣だったと告げている。
「何か、他に方法があるはずよ」
私はささやいた。
「ないんだ」
彼の声は断固としていた。
「これが俺たちに残された唯一のチャンスなんだ。でも小夜、君なしではできない。分かってほしい――何一つ、本物じゃないんだ。どんな残酷な言葉も、君を無視する時も、君を愛していないように見える瞬間も……すべて、演技なんだ」
私は彼の手を振りほどき、窓辺へ歩いた。外ではいつもと変わらず東京の街が煌めいていたが、今や何もかもが違って見えた。
「誰と……その、相手の女性は誰なの?」
祐真は長い間、黙っていた。
「桐生美加だ」
胃がずしりと落ちる。桐生美加。祐真が大学時代に付き合っていた、美しく洗練された女性。彼女が美術の道に進むためにP市へ発つまで、二人は交際していた。祐真の母親が、今でも家族での食事のたびに話題にする女性だ。
「どうして彼女なの?」
「信憑性がなければならないからだ」と祐真は言った。
「家の弁護士たちが監視している。本物に見えなければ、君を本気で試すものでなければ、俺たちは自動的に失格になる」
私は自分を抱きしめた。
「それで、桐生美加はこの話に同意したの?」
「これもビジネスだと理解している。彼女の時間に対しては、十分な報酬が支払われることになっている」
ビジネス。彼は私たちの結婚を破壊することを、まるで企業合併のように語っていた。
「できないわ」
私は言った。
「祐真、あなたが一年も他の女性と一緒にいるのを見るなんて無理よ。あなたが――している間、平気なふりなんてできない」
「俺が何だって?小夜、こっちを向いてくれ」
彼は立ち上がって近づき、私を彼の方に向かせた。
「俺が本当に君を裏切るなんて、絶対にない。これは全部、見せかけなんだ。俺が君を愛しているのは知ってるだろ」
「本当に?」
「俺たちは七年間一緒にいて、結婚して五年だ。君は、俺が人生を共に築きたいと願った唯一の女性なんだ」
彼の両手が私の顔を包んだ。
「でも、これをやらなければ、俺たちはすべてを失う。家も、未来も、安定も。君はそれを望むのか?」
私は目を閉じ、追い詰められた気分になった。
「決めるのに、どれくらい時間があるの?」
「桐生美加は来週、P市から戻ってくる。もしこれをやるなら、すぐに始めなければならない」
その夜、私はほとんど眠れなかった。祐真と私が築き上げてきた人生、私たちが計画した未来について考え続けていた。子供たち、H市の家、そして旧家の名門の一員であることから得られる安定。
朝になる頃には、私は決心していた。
「わかったわ」
朝食の席で、私は彼に告げた。
「やるわ」
祐真の安堵した表情は見て取れた。
「本気か?」
「本気よ。でも、祐真――」
私はテーブル越しに彼の手を取った。
「これが本当にただのテストだって約束して。まだ私を愛してるって、約束して」
「何よりも君を愛してる」
彼は言った。その声はあまりに誠実で、私はこのことから悪いことなど何も起こり得ないと、ほとんど信じそうになった。
二週間後、桐生美加がY市に到着した。
その三週間後、私は自分が妊娠していることに気づいた。
検査薬を見つめ、喜びに満たされたのを覚えている。祐真とは一年以上も妊活を続けてきた。そしてついに、ついに、その時が来たのだ。彼に告げ、彼の顔が輝き、子供部屋の計画を立てる光景が目に浮かぶようだった。
だがその夜、彼に告げると、彼の顔は青ざめた。
「小夜、だめだ。今じゃない」
「今じゃないって、どういうこと?」
私はまだ妊娠検査薬を握りしめ、興奮で手が震えていた。
「祐真、私たちに赤ちゃんができたのよ」
「だめだ。テストの最中は。わからないのか?君が妊娠していたら、赤ちゃんが関わってきたら、すべてが変わってしまう。感情がリアルになりすぎて、複雑になりすぎる」
「もうリアルよ」
私は言った。
「これは、私たちの子よ」
「ただ細胞の塊だ」
祐真は冷酷に言った。
「小夜、堕ろしてくれ」
