第1章
弁護士の声が、水の中から聞こえてくるみたいだ。「こちらに署名を、白銀夫人」
ペンを握る指が震える。ペン先は署名欄の上を彷徨い、なかなか紙に降りようとしない。床から天井まである窓から差し込む陽光が書類を切り裂き、そこに印刷された黒い文字を照らし出す。「婚姻解消」
三年。白銀夫人でいた三年という月日は、結局この書類の束と、五億円の小切手一枚に集約される。私が欲しがりもしなかったお金。
「白銀夫人?」弁護士の声には、職業的な優しさがある。「もう一度、条件をご説明いたしましょうか?」
「いいえ。理解しています」
でも、私は本当は何を理解しているんだろう。これが三年前、私たちが合意した結末だということ。白銀新が約束を守り、私にちゃんとした別れを与えてくれることに感謝すべきだということ。
ペンが、ようやく紙に触れた。「白銀恵理」と署名しながら、別の瞬間が脳裏をよぎる。三年前の、同じオフィス。二人の見知らぬ男女が、ロボットみたいに婚前契約書にサインしていた。花も、誓いの言葉もない。ただ、隅に置かれた祖父たちの写真が、物言わぬ証人のようにそこにあっただけ。
新は言った。「三年だ。互いに体面を保ち、干渉せずに生活する。その後は、円満に別れよう」
その声は、ビジネス契約を読み上げるかのように冷静だった。
私は言った。「わかった」
最後の一文字を書き終える。彼の名字を使うのは、これが最後になるのかもしれない。
弁護士は満足げに頷き、書類をまとめる。立ち上がると、足に力が入らなかった。
法律事務所の外に出ると、白川市の日差しは泣きたくなるほど鋭かった。運転手は呼ばない。家まで三キロほど。頭を整理する時間が必要だ。
バッグの中でスマホが震えた。見ない。
緑ヶ丘公園を通り過ぎるとき、足が勝手に速度を落とす。あのベンチはまだそこにあった。私たちの最初の「デート」の場所。もっとも、当時はデートですらなかったけれど。今はカップルがそこでいちゃついている。女の子の笑い声が、明るく響き渡る。
二年前、中村おじいさんが亡くなった夜のことを思う。
新は二週間、ずっと私のそばにいてくれた。たいして口数は多くなかった。ただ毎晩、私の部屋のドアの外にあるソファに座っていた。まるで私が何か馬鹿なことをしでかすのを恐れているかのように。ある朝目覚めると、カウンターにシナモンロールが置いてあった。私の大好物。どうして彼がそれを知っていたんだろう?
あれには何か意味がある、なんて思ってしまった。
でも次の日には、彼はまた丁寧でよそよそしい彼に戻っていた。あの優しさが存在しなかったかのように。
スマホがまた震える。今度は取り出した。
小百合:「恵理! 今夜うちに来ない? あなたの大好物のグラタン作ったんだけど!」
キーボードの上で指が彷徨う。行きたい。でも、今夜は家に帰らなければ。私たちのマンションへ。半年後には、もう「私たち」のものではなくなる場所へ。
私:「また今度でもいい? 今日はちょっと疲れてて」
スマホをしまい、顔を上げる。私たちの住むビルが、目の前にそびえ立っていた。
ドアを押し開けると、ニンニクとバジルの香りが鼻をついた。玄関先で凍りつく。
オープンキッチンで、新がコンロの前に立っている。スーツのジャケットはバースツールに掛けられ、白いシャツの袖を肘までまくり上げている。フライパンの中のパスタを煽るのに集中しているようだ。窓から差し込む夕陽が、彼を金色に染め上げていた。
ああ。なんて綺麗なんだろう。そして、どこまでも美しく、どうしようもなく、夫なのに夫じゃない人。
「帰ったのか」。彼は振り向かない。「夕食、できてる」
「夕食を作った」とは決して言わない。いつもそうだ。慎重に選ばれた中立的な言葉で、私たちをそれぞれの安全な距離に保っておく。
「ありがとう」。普通を装って言う。「わざわざいいのに」
「手間じゃない」。彼はようやくこちらを向いた。
視線が交差する。その瞬間は、あまりにも長く感じられた。
彼の灰青色の瞳に何かがきらめく。心配? 好奇心? それとも、また私が深読みしているだけ?
先に目を逸らしたのは私だった。いつもみたいに。
バッグを置き、テーブルへ向かう。彼はコンロに向き直る。その動きは、どこかぎこちなかった。
テーブルには二枚の皿。パスタとシンプルなサラダ。きちんと畳まれたナプキン。私が好きな温度にきっかりと調整された氷水。
彼は覚えている。いつもこういう些細なことを覚えている。でも、それが何を証明するというの?
私たちは向かい合って座る。沈黙の中、フォークと磁器の皿が触れ合う音がやけに大きく響く。新は手術でもするかのような正確さでサラダを切っていく。私はパスタをフォークに絡め、口に運ぶ。美味しいはずなのに、何も味わっている気がしない。
「今日、弁護士から連絡があった」。私がついに沈黙を破った。
彼のフォークが宙で止まる。「そうか」
「そろそろ具体的な段取りを話し合った方がいいかも。契約が終わるときの」
契約が終わるとき。まるで私たちの結婚が、解約条項のついたただのビジネス取引みたいに。まあ、事実そうなのだけれど。
でも一年目と三年目の間のどこかで、私にとって、それはビジネスではなくなっていた。
「まだ時間はある」。彼の声は思ったより掠れていた。「半年だ」
「そうね。半年」
聞きたい。もしかして、もっと早く終わりたい? 誰か、好きな人でもできた? 私と同じくらい、この芝居にうんざりしてる? でも、聞けない。聞くことは、私には受け止めきれない答えと向き合うことだから。
「来週、港島に行かなければならなくなった」。彼が不意に口を開く。「三日間だ」
フォークを落としそうになる。「わかった」。返事が早すぎた。
『行かないで。それか、私を連れて行って。どうして行くのか教えて』
「ただの役員会議だ」。彼は私を見る。「大したことじゃない」
大したことじゃない。だから私をそこに必要としていない。だから私は、詳細を知るほど重要じゃない。
「わかってる」
私たちはまた沈黙に陥る。彼は自分の皿を見つめ、私は夜景を見つめる。白川市の明かりが一つ、また一つと灯り、まるで星々が地上に降り注いでいるかのようだ。
本当に誰かを愛していたら、街の明かりが違って見えるんだよ、とおじいさんは言っていた。その通りだった。新に恋をしてから、この街のすべての光が、どれほどここにいたいかを私に思い出させる。
夕食が終わりに近づいた頃、私はもう我慢できなくなった。「三日間」。何気ないふうを装って言う。「じゃあ、金曜日に帰ってくるの?」
新が顔を上げる。「俺がいなくて寂しくなる予定でも?」
口調は冗談めかしているのに、その目は何かを探っている。心臓が激しく鼓動する。
『毎日よ。あなたが目の前に座っているときでさえ、寂しい』
「夕食、取っておくべきかと思って」。私は無理に笑みを作る。
彼の瞳から光が消える。じっと見つめていなければ見逃してしまうほど、一瞬のことだった。
「気にするな。自分のことは自分でできる」
もちろん。彼はいつだって自分のことは自分でできる。誰も必要としない。特に、私のことなんて。
私は立ち上がり、皿を片付け始める。彼も立ち上がる。「俺が片付ける。疲れてるだろ」
「平気よ」
「恵理――」
振り向いて彼を見る。彼はためらい、喉仏が動く。一瞬、彼が何かを言うんじゃないかと思った。すべてを変えてしまうような、何かを。
「おやすみ」
「おやすみ、新」
私は自分の寝室に向かう。ドアを閉める前に、ちらりと振り返る。彼はキッチンに立ち、その後ろ姿はどこか寂しそうに見えた。私はドアを閉めた。
翌朝、新はオフィスで書類を睨んでいたが、一文字も読んでいなかった。昨夜はほとんど眠れなかった。廊下で足音が聞こえるたびに、恵理が部屋から出てくるのではないかと思った。だが、彼女が出てくることはなかった。
正人がノックをしてドアを開ける。「白銀社長、役員会の資料にお目通しいただけますでしょうか」
新は書類を受け取り、機械的にサインする。正人はデスクの向こうに立ち、明らかに何か言いたげな様子だ。
「それから、白銀夫人の誕生日は来週の水曜日です。何か手配いたしましょうか?」
新のペンが止まる。「彼女が君に?」彼は少し慌てたように顔を上げた。
「いえ、旦那様。ファイルを拝見しました。この三年、毎年お伝えしておりますが、一度も――」
「彼女の誕生日がいつかは知っている」。新は彼の言葉を遮った。
正人は上司の顔――防御的な態度と脆さが混じったその表情――を見て、内心ため息をついた。この男は役員会を支配し、何十億もの金を動かすことができるのに、一人の女性の前では混乱した十代の少年のようになってしまう。
「失礼ながら旦那様、知っていることと、気持ちを示すことは別物です。何を手配いたしましょうか?」
「自分でやる」
正人は一瞬言葉を止める。「旦那様、今年は私を通して贈り物を届けるのではなく、直接お伝えになってはいかがでしょうか?」
新はペンを置き、眼鏡を外してこめかみを揉んだ。「彼女は、不適切だと思うだろう」
「あるいは、あなたが気にかけていると思ってくださるかもしれません」
オフィスは数秒間、静まり返った。
彼は気にかけている。気にかけているからこそ、毎晩彼女のドアをノックして、この三年間、彼女に恋をしないように努力し続け、そして見事に失敗したと告げたい衝動を必死に抑え込んでいるのだ。
デスクの上で新のスマホが震えた。彼は画面をちらりと見る。恵理からのメッセージだ。
開くと、一枚の写真が表示された。星見美術館の古代ギリシャ彫刻ギャラリー。天窓から陽光が差し込み、アフロディーテの像に降り注いでいる。美しい写真だった。
数秒後、別のメッセージが届く。
恵理:「ごめんなさい!!! 小百合に送るつもりだったの。無視して」
新はその写真をじっと見つめ、口角が勝手に上がる。彼女は美術館にいる。動揺しているとき、彼女はいつもそこへ行き、まるで答えを持っているかのように古代の彫刻を眺めるのだ。
昨夜の会話のせいか? それとも、弁護士の書類のせいか?
彼の指がキーボードの上を彷徨う。返信したい。「綺麗だね」。あるいは、「大丈夫か?」。あるいは、本当に言いたいこと――「小百合に送るな。俺に送ってくれ」
しかし、彼はただその写真を保存した。そして、彼女に関する三年分の写真で埋め尽くされた、あの隠しアルバムに追加した。彼女が知らないうちに撮ったもの、彼女が間違って送ってきたもの、彼女が彼の人生に実在する証拠なら何でも。
六ヶ月。それが、彼が妻に恋に落ちたことをどう告げるか、考え出すために残されたすべての時間だ。彼から解放される日を、おそらく指折り数えているであろう妻に。
「旦那様、奥様からお電話が。例の『重要なご家族の問題』についてお話したいと」
新の笑みが消える。それが良い知らせだったためしはない。
「わかってる。キャンセルしてくれ」
