第2章

恵理視点

アフロディーテの彫像の前に立っていると、スマートフォンが震えた。

今朝の美術館は静かだ。天窓から差し込む陽光が、大理石を照らしている。手にはタブレット。カーソルが、空っぽのノートの上で点滅している。この彫刻を二十分も見つめているのに、一言も書けない。

考えられるのは、昨日のことばかり。法律事務所。あの書類にした、私の署名。

スマートフォンが再び震える。取り出して、画面を見た。

非通知表示。

一瞬ためらってから、通話ボタンを押した。

「宮崎さん。……ああ、失礼。白銀夫人。もっとも、その肩書にも今や有効期限があるのでしょうけれど」

上品で、冷たい声。一音一音、どこまでも正確だ。名乗られるまでもない。

白銀美也子。新の、母親。

スマートフォンを握る指に力がこもる。

「おばさん。何かご用でしょうか」

冷静を装う。けれど心臓は、すでに速鐘を打っていた。

「お会いしたいの。今日。午後二時に、星見ホテルで。お話しすべきことがありますわ。二人きりで」

誘いではない。命令だ。

「それは、少し――」

「譲れませんわ。それとも、新も同席した方がよろしいかしら? そうなれば、全員にとって、はるかに居心地の悪いことになるでしょうけど。保証いたしますわ」

彼女は知っている。あの書類のことを。当然だ。白銀家の弁護士が、一時間もしないうちに報告したに違いない。

唇を噛む。爪が手のひらに食い込んでいた。

「……わかりました。午後二時に」

「結構ですわ。ふさわしい服装でいらっしゃるようにね、あなた」

通話は一方的に切られた。

手の震えに気づかぬまま、スマートフォンの画面を見つめていると、隣に小百合が現れた。

「恵理? 大丈夫? ひどい顔してるけど」

「大丈夫よ」

「嘘ばっかり。さっきから二十分も、同じ彫像をぼーっと見てるじゃない。どうしたのよ?」

私は深く息を吸った。

「新さんのお母様から電話があったの。会いたいって」

「はあ? あの人が三年間、一度だってあなたに電話してきたことなんてなかったじゃない! 一体何の用なの?」

「わからない。でも、これからそれを確かめに行くところ」

星見ホテルのティールームは、クリスタルのシャンデリアとベルベットの椅子で埋め尽くされている。ウェイターたちが、まるで幽霊のようにテーブルの間を滑るように移動していく。細部に至るまで、すべてが同じメッセージを叫んでいるようだった。お前は場違いだ、と。

白銀美也子は窓際の席に座っていた。非の打ちどころのないスーツ、喉元には真珠。教科書のように完璧な姿勢。銀色の髪は一筋の乱れもなく結い上げられている。私に気づくと、彼女は口元を歪め、笑みに似た何かを作った。だが、その瞳は氷のようだ。

彼女は私を頭のてっぺんからつま先まで品定めするように見た。私はシンプルなセーターにジーンズという格好だ。彼女の目には、道端から迷い込んできた人間のように映っていることだろう。

「お座りなさい」

「どうぞ」もつかない。ただの命令。

私は座った。背筋を伸ばす。膝に置いた指先が冷たい。

「単刀直入に申し上げます。あなたと新との契約は、六ヶ月後に満了します。あなたがその合意をきちんと守ることを、確認するために参りました」

いきなり本題だ。無駄な時間はない。

「そのつもりです」

「よろしい」

彼女は紅茶を一口すすり、カップを置く。その目が、鋭さを増した。

「あなたのことは調べさせていただきましたわ、宮崎さん。八年前に倒産した建設業者のご息女。お父上は今、アルコールに溺れる日々だとか。お母上はあなたが八歳の時に家を出て、新しい夫とその息子を選んだ。そして、あなたの継母……」

彼女は言葉を切る。笑みが深くなった。

「菜々美さん。あなたの存在を無視する術を、完璧に会得した女性。自分の家で見えない人間として育つのは、さぞお寂しかったことでしょうね」

一言一句が、心臓に突き刺さる針のようだった。手のひらに爪を食い込ませる。痛みが、私を集中させてくれる。

動揺を見せては駄目だ。その言葉の一つ一つが、古い傷口をこじ開けていることなど、絶対に気づかれてはならない。

「私の経歴は、秘密でも何でもありません」

自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

「ええ。ですが、無関係でもありませんわ」

彼女はバッグに手を伸ばし、封筒を取り出した。そして、それをテーブルの上を滑らせてこちらへ寄越す。

クリーム色の封筒。表には白銀家の紋章が型押しされている。開けなくても、中身はわかった。

「二億円です。契約上の和解金とは、別に。この三年間、口を堅くしてくださったことへのお礼だとお考えになって」

私は、まるで噛みつかれでもするかのように、その封筒を睨みつけた。

「あなたはご自分の役目を、まあまあ果たしてくれました。ですが、これが本物だったなどと勘違いするのはやめましょう。新があなたと結婚したのは義務からです。彼の祖父の、最期の願い。務めであって、愛ではない」

務め。愛ではない。

そんなことは、ずっと前からわかっていた。けれど、彼女の口からそれを聞かされると、やはり胸にナイフを突き立てられたような痛みが走る。

「彼には、白銀の遺産を支えることのできる妻が必要です。国会議員の娘。八崎大学の卒業生。私たちの社交界で、どう振る舞うべきか心得ている人間が」

彼女は言葉を切った。

「井上由紀さんのような方がね。法科大学院では、かなり親しかったのですよ。あなたが現れるまでは」

私の中で、何かがぷつりと切れた。

これまでの静かな苦しみの年月。継母の冷たさ。父親の無関心。新さんの、距離感。そのすべてが、一点の怒りとなって収束していく。

もう、おじいちゃんが死んだ時にただ泣くことしかできなかった女の子じゃない。

私は封筒を押し返した。ゆっくりと、意図的に。

「おばさん」

顔を上げ、彼女の目をまっすぐに見つめる。

「この世には、私が尊敬できる人間がたくさんいます。ですが、あなたは違う」

彼女のティーカップが、宙で凍りついた。

「……なんですって?」

「貧しさについて語りたいのでしたら、あなたの心の貧しさについてお話ししましょうか。金銭的なものではありません。感情の、です」

私は身を乗り出した。

「あなたとご主人は、新さんに金で買えるものすべてを与えました。神崎大学。八崎大学。信託財産。でも、決して与えなかったものが何だかお分かりですか?」

「何を――」

「ハグです。たった一度のハグも」

ティールームの客が何人かこちらを振り返る。構わない。

「彼が学校のディベート大会で優勝した時、十歳でした。彼は興奮してあなたに電話して、来てほしいと頼んだ。あなたが何と言ったか、ご存知ですか?」

美也子の顔が青ざめる。

「『ただの学校の大会でしょう、坊や。真理子を行かせますから』」

彼女の顔から完全に血の気が引いた。

「彼がその話を私にしてくれたのは、ある眠れない夜のことでした。二年前、中村おじいさんが亡くなった後です。私が泣いているのを彼は抱きしめてくれて、それから話し始めたんです。あなたに認められたくて、どれだけ頑張ってきたか。あなたがチャリティーのガラパーティーや役員会で忙しくて、一度も顔を見せてくれなかったことのすべてを」

私は立ち上がった。

「私があなたの世界に属しているかと、お聞きになりましたね。いいえ、属していません。そして、それに神様も感謝していることでしょう。なぜなら、あなたの世界は、愛には条件があると新さんに教えたからです。家族とは取引だと。感情を見せることは弱さだと」

美也子の声が、今や震えていた。

「私たちの地位を、遺産を維持するために何が必要か、あなたにはわかりはしない――」

「あなたの遺産? あなたの遺産とは、母親から一度も聞いたことがないから『愛してる』と言えない息子ですよ。妻のために夕食を作ることが『不適切』だと思っている息子です。神様、彼が気にかけていることを見せるなんて、とんでもない、とね」

私はバッグを掴んだ。

「彼は、二億円の小切手なんかより、もっといいものに値します。義務や務めなんかより、ずっといいものに。そして、あなたなんかより、絶対にいいものに値するんです」

私は背を向けて歩き出した。

背後から、美也子の声が追いかけてくる。聞かなかった。

星見ホテルの外に出ると、白川の冷たい風が顔に吹きつけた。

手が震えている。何もかもが、震えている。

二百メートルほど歩いて、ようやく立ち止まった。建物の壁に寄りかかる。足に力が入らない。

私、新さんのお母様に、なんてひどいことを言ってしまったんだろう。

ああ。もうおしまいだ。

バッグの中で、スマートフォンが狂ったように震えている。見ることができない。きっと美也子からだ。あるいは、もう新さんに電話したのかもしれない。

彼は私を憎むだろう。私が彼の家族を侮辱したと思うに違いない。

でも、全部本当のことだった。一言一句、すべて。

泣きたい。でもなぜか、涙は出てこない。ただ、この胸の締め付けと、息苦しさだけがある。

新はホテルの部屋に座り、財務予測の資料を眺めていたが、何も頭に入ってこなかった。役員会はうまくいった。新しい投資戦略について、満場一致で可決された。満足すべきはずだった。

それなのに、彼は落ち着かなかった。

スマートフォンが震える。正人からだ。

「会議は今終わった。どうした?」

「社長、お母様からお電話が。本日、奥様とお会いになったそうです。星見ホテルで」

新はスマートフォンを握る手に力を込めた。

「いつだ?」

「二時間前です。奥様は取り乱した様子でお帰りになり、それからずっと美術館にいらっしゃいます」

冷たい恐怖が、彼の胸に広がった。母親と恵理。二人きり。そこから良いことなど生まれるはずがない。

「次の便で戻る。今すぐ予約しろ」

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