第3章
四時ごろに帰宅すると、リビングに啓一がいた。ラップトップは開かれていたが、本気で仕事をしているわけではない。ただ画面をじっと見つめているだけだ。
「ジム、どうだった?」と彼が訊ねた。
「別に」私はドアのそばにバッグを置いた。「あの子たち、上達してるわ。今日は誠が完璧なコンビネーションを決めたのよ」
啓一は、珍しく、ちゃんと話を聞いているかのように頷いた。
シャワーを浴びようと二階へ向かっていると、スマホが鳴った。
「もしもし、黒沢帆夏さんのお宅でしょうか?」
「はい、そうです」
「わたくし、東日野医科大学附属病院の淳子と申します。年に一度の健康診断の件で、リマインドのお電話をいたしました。来週の水曜日、午前十時のご予約となっております」
東日野医科大学附属病院。そうだった。年に一度の検診のことなんて、すっかり忘れていた。
「リマインドありがとうございます」と私は言った。「伺います」
「承知いたしました。当日は保険証と、現在服用中のお薬があればお持ちください。先生が確認を――」
突然、スマホが手からひったくられた。
振り返ると、そこにいたのは啓一だった。顔は紙のように真っ白だ。
「今、なんて言った?」彼はスマホに向かって怒鳴った。
「啓一、何してるの?」
彼は手で私を制し、スマホを耳にさらに強く押し当てた。
「いつ来院すればいいんですか?」と彼は看護師に訊ねた。「緊急なんですか? すぐに治療が必要な状態なんですか?」
スピーカー越しに淳子さんの戸惑った声が聞こえたが、言葉までは聞き取れない。
「血液検査? 画像検査? 具体的にどういう状況なんですか?」啓一の声がだんだん甲高く、パニックを帯びていく。
「あの、患者様、何か誤解があるかと――」
「いや、知る必要があります。どれくらい悪いんですか? ステージは? 彼女に残された選択肢は?」
「啓一!」私は彼の腕を掴んだ。「スマホを返して!」
彼は私を振り払い、哀れな看護師に話し続けた。
「費用がいくらかかっても構いません。最高の医者と、最高の治療を受けさせてください。金に糸目はつけません」
「患者様、本当に誤解されているかと――」
「彼女はあと、どれくらいなんです?」啓一の声がひび割れた。「数ヶ月? それとも数週間?」
淳子さんの声が、彼のパニックを打ち破ろうとするかのように大きくなった。「患者様、これはただの定期的な健康診断のリマインダーでございます!」
啓一はぴたりと動きを止めた。
「定期的?」
「はい。年に一度の検診です。ごく一般的なものですが。何か問題でもございましたか?」
啓一の顔に、困惑、安堵、そして気まずさのような感情が次々と浮かぶのを私は見ていた。
「いえ……失礼。てっきり……」彼は咳払いをした。「お電話ありがとうございました」
彼は震える手で私にスマホを返した。
「すみませんでした」と私は淳子さんに言った。彼女はきっと、何かの間違いで変な人に電話してしまったと思っていることだろう。「では、水曜日によろしくお願いします」
電話を切って、私は啓一をじっと見つめた。
「一体、今の何なの?」
彼はいつも完璧に整えられている髪を、手でかき乱していた。
「てっきり……医療センターって言うから……」
「年に一度の健康診断よ、啓一。毎年受けてるでしょ。アスリートにとっては普通のこと」
「ああ。そうだな」彼はソファにどさりと腰を下ろした。「それなら納得がいく」
だが、彼はまだ動揺しているように見えた。
「大丈夫? 最近、すごくストレスが溜まってるみたいだけど」
啓一は、読み取れない表情で私を見た。悲しい? 怯えている? よくわからなかった。
「大丈夫だ」と彼は言ったが、その声は弱々しかった。「少し疲れているだけだ」
私は彼の向かいに腰を下ろした。「仕事は大丈夫なの? いつもよりずっと家にいることが多いけど」
「仕事は問題ない」
「芹奈が復帰する件?」
彼の頭がカッと上がった。「何?」
「彼女の復帰のニュース。ネットで見たわ。だからあなたが変な態度をとってるのかなって思ったの」
彼の顔に何かがよぎったが、私が予想していたものではなかった。恋しさや興奮ではない。もっと……困惑に近い何か?
「芹奈?」と彼は繰り返した。
「ええ。まあ、わかるわ。あなたたちには色々あったものね。もしこの取り決めを早く終わらせたいなら、それでもいい。面倒なことはしないから」
啓一は長い間、私をじっと見つめていた。
「俺が、君に出て行ってほしいと思っているのか?」
「違うの?」
「違う」その言葉は、ほとんど必死な響きで、素早く口から出た。「いや、君に出て行ってほしくない」
状況はますます理解不能になっていく。
「わかったわ」と私はゆっくり言った。「じゃあ、何があったの? 昨日の夜から、あなたの様子、すごくおかしいわよ」
啓一はあまりに長く黙っていたので、もう答える気はないのかと思った。
「夕食をとるべきだ」と彼はついに言った。「真里亜に何か健康的なものを用意させる」
また健康の話だ。
「夕食くらい自分で作れるわ、啓一」
「君には適切な栄養が必要だ。有機野菜、低脂肪のタンパク質。それから、トレーニングも少し控えた方がいい。過度な運動は体に害を及ぼすこともある」
私は瞬きをした。「過度な運動? 私はボクシングのコーチよ。運動が文字通り私の仕事なんだけど」
「もう少し体への負担が少ない仕事に転職することも考えたらどうだ」
今、本気で言っているのだろうか?
「私の生き方に口出しするつもり?」
「君を気遣っているんだ」
その言葉が、私たちの間の空気に漂った。
私を気遣う? いつから相沢啓一が誰かの、ましてや私のことなんかを気遣うようになったっていうの?
「どうして?」と私は訊ねた。
彼はその強烈な黒い瞳で私を見つめた。一瞬、彼が本当に何が起こっているのかを話してくれるのではないかと思った。
だが代わりに、彼は立ち上がった。
「いくつか電話をかける必要がある」と彼は言った。「来週、原田先生に診てもらえるよう手配する」
「原田先生って誰?」
「東日本で、いや、おそらくこの国で最高の医者だ」
「定期的な健康診断のために?」
「念のためだ」
「何から念のためなの?」
しかし、啓一はすでにオフィスに向かって歩き出しており、スマホを耳に当てていた。
「原田先生? 相沢啓一です。緊急の診察をお願いしたいのです。妻が、至急先生に診ていただく必要がありまして」
私はそこに座ったまま、完全に混乱していた。啓一の行動すべてが謎めいていて、まるで私の知らない重大な秘密があるかのようだった。
定期的な検診のために、一体どんな緊急の診察が必要だというのだろう? 啓一は何を知っているのか。そして、なぜ私には教えてくれないのか
