第3章
広昭の車が、とあるプライベートバーの前に停まった。
私は街角の影に車を滑り込ませ、数分間息を潜める。誰にも見られていないことを確信してから、音もなくその後を追った。
バーの中、ナナミは気怠げにカウンターへもたれかかっていた。ワインレッドのシルクドレスを纏い、病人の面影など微塵もない。
広昭の姿を認めると、彼女の唇が艶めかしく歪む。
「遅いじゃない。待ちくたびれたわ」
広昭は彼女に近づくと、自然な仕草でその腰に手を回した。
「夏希の誕生パーティーだぞ。急に抜け出すわけにはいかない」
「夏希の誕生日、ね」
ナナミの瞳に玩弄の色が走る。
「そういえば私、あの子のこと本当に大好きよ」
「あいつに手を出すな」
広昭の声に警告の色が混じる。
「嫉妬してるの?」
ナナミはクスクスと笑い、指先で彼の胸元をなぞった。
「あんたが私を満足させてくれないなら、本当にあの子とお喋りしに行っちゃうかも。私がどれだけあの子を……味わいたいか、教えてあげるためにね」
言葉が終わるより早く、広昭は猛然と彼女の髪を掴み、唇を塞いだ。
「黙れ、クソが」
彼は彼女の唇を噛みながら吐き捨てる。
二人はそのままカウンターで激しく絡み合い始めた。
私はこみ上げる吐き気を堪え、観察を続けた。
バーには他にも客がいたが、皆示し合わせたように視線を逸らしている。この光景は見慣れたものなのだろう。
「ねえ、教えてよ」
激しい行為の合間、途切れ途切れに彼女が囁く。
「あの子もこんなに締まりがいいの? こんなに濡れる?」
「黙れ」
「あら、図星? それとも……」
ナナミは挑発的な眼差しで彼を見上げる。
「あの子が自分の下でこうなってるのを想像してる? あの子、本当に無垢よね……未だに私たちのこと、何も気づいてないんだから。でも、その無知なところも好きよ。ねえ兄さん、あの子から株も自由も奪って、家に閉じ込めて、私たち二人の『妻』にするのはどう?」
頭の中が真っ白になった。
ナナミ? 妹のように可愛がってきたあのナナミが、私に対してそんな……汚らわしい欲望を抱いていたなんて。
「狂ってる」
広昭が荒い息で応じる。
「ここに閉じ込めるのも悪くないわ」
ナナミはうっとりとした目で周囲を見回す。
「このバーの地下にあるプレイルーム、行ったことあるでしょう? あんたがプレゼントしてくれたんだもの、知ってるはずよね——あの鏡、あのおもちゃたち……想像してみて。あの子があのベッドに縛り付けられて、誰に助けを求めていいか分からなくて……」
「誰に許しを乞うかしら? 私? それともあんた? 私がキスしてる間、あんたが後ろから……ああ、あの子きっと泣くわね。あの綺麗な涙を流して……」
「代わりばんこでもいいし」彼女は狂気を孕んだ声で続ける。
「あるいは一緒に……あんな華奢な体で受け止めきれるかしら。でも大丈夫、時間はたっぷりあるもの。私たち二人を同時に喜ばせる方法、じっくり教えてあげましょう……」
涙で視界が滲み、心臓が引き裂かれるように痛む。
一ヶ月前、SNSでこのバーの盛大なオープン告知を見たことを思い出した。
街の夜空を半分も焦がすほどの花火、滝のように流れるシャンパン。その豪奢さは、今夜の誕生パーティーにも劣らなかった。
その日は、私たちの結婚記念日だった。なのに広昭が帰宅したのは明け方。
あの日、彼が何をしていたのか、想像に難くない。
彼はこのバーで、ナナミと寝ていたのだ。
両親が亡くなった後、彼は私の手を握りしめ、こう誓ったはずだ。
「これからは、どんな日も僕が側にいるから」
けれど結婚してたった五年で、彼は私の人生から出て行ってしまった。
この兄妹は、揃いも揃って悪魔だ。
妹は私を病的な幻想の玩具と見なし、兄は愛を囁きながら私を裏切り続けている。
私は吐き気を催すその場から、逃げるように立ち去った。
車に戻っても、手の震えは止まらなかった。
深呼吸をしてパーティー会場へ戻ると、疲労を理由に美由紀の家に泊めてほしいと頼んだ。
美由紀は二つ返事で承諾してくれた。
……しかし午前二時、彼女は申し訳なさそうに客室のドアをノックした。
「ごめんね、夏希。帰ったほうがよさそう。広昭さんが迎えに来ちゃったの」
美由紀に連れられてリビングへ行くと、広昭が苛立たしげに歩き回っていた。
私の姿を見るなり、彼が駆け寄ってくる。
「どこに行ってたんだ!」
抑えきれない怒りが声に滲む。
「どうして電話に出ない? どうして家にいないんだ?」
「家に帰ってお前がいないと分かった時、僕がどれだけ心配したか分かるか? 警察に通報するところだったぞ!」
「警察?」
私は驚いたふりをした。
「美由紀とのお喋りが楽しすぎて、時間を忘れちゃっただけよ。それに、貴方はナナミを病院へ送っていったでしょう? 付き添いで戻らないと思ってたから」
彼の表情が微かに強張った。
「戻るに決まってるだろう」
「夏希」
彼は息を整え、努めて冷静に言った。
「次は必ず居場所を教えてくれ。君は僕の妻だ。僕には君がどこにいるか知る権利がある」
「心配かけてごめんなさい」
私は従順に頭を下げた。
帰りの車中、彼は私の手を握りながら繰り返した。
「二度とこんなふうに怖がらせないでくれ。本当に心配したんだ」
私は偽りの承諾を返し、こう告げた。
「そういえば昨日、貴方が気に入りそうなものを見つけたの。だからプレゼントを用意したわ」
彼の表情が緩む。
「なんだい?」
「まだ内緒」
私は意味深に微笑んだ。
「あと数日待ってて。信じて、きっと……忘れられない思い出になるから」
もうすぐ、とびきりの『プレゼント』を贈ってあげる——離婚届と、結婚指輪を。
そして私は、彼の世界から消え失せるのだ。
翌日。広昭が階下でコーヒーを飲み、私が書斎で離婚書類を作成していると、ナナミが帰ってきた。
彼女の手には病院のロゴが入ったファイル。その顔色は、恐ろしいほどに青ざめていた。
