第4章

 部屋を出て階段の踊り場に立つと、七海が広昭のもとへ歩み寄る姿が目に入った。

「よくやった」

 広昭は彼女の手にあるファイルに一瞥をくれると、称賛の色を滲ませた。

「病院の記録も揃えたのか? 相変わらず手際がいいな」

 七海は彼の賛辞に応えることなく、ただじっと彼を見つめ返した。

 その視線に、私の胸がざわめく。

「妊娠したわ」

 彼女の声は羽毛のように軽かったが、まるでハンマーで殴られたような衝撃が私の心臓を襲った。

「昨日、流産しかけたの」

 広昭の顔色が瞬時に変わる。

 彼は咄嗟に彼女の口を塞ぐと、怯えたような目で階上を窺った。

 私は慌てて数歩後ずさり、物陰に身を潜める。

 やがて、彼は七海の腕を掴んで書斎へと押し入っていった。

 私も音を殺して後を追い、ドアに耳を押し当てる。

 書斎の中から、紙をめくる音が聞こえてきた。

「クソッ」

 広昭の声には苛立ちが混じっていた。

「本当に孕んでやがる」

 短い沈黙の後、彼は言った。

「六週……時期は合うな。俺の子だ」

 私の手が、無意識のうちに下腹部へと伸びる。

 そこにもまた、一つの小さな命が宿っている。誰にも告げていない、私だけの秘密が。

「夏希に俺の子だと悟られるわけにはいかない」

 広昭の声が、私の思考を遮った。

「だが、この子は産ませる。我が家にとって初めての子だ」

 彼の口調には、奇妙な高揚感が漂っていた。

「俺たちの血筋なんだ」

 涙が音もなく零れ落ちる。新婚当時の記憶が蘇る。広昭は私を抱き寄せ、髪にキスを落としてこう言ったのだ。

『愛しい人、子供は作らないでおこう』

『君を愛しすぎているんだ。どんな存在にも――たとえ二人の子供であっても――君から俺への愛を分けたくない。君は俺の全てだ。俺も、君を永遠に独占したい』

 あの頃の私は、その深い愛情表現にどうしようもなく感動し、すぐに避妊を承諾した。

 それ以来、二人の世界が壊れることを恐れて、毎日欠かさずピルを服用してきたというのに。

 それなのに今、彼は七海に向かって『我が家にとって初めての子』だと言い放った。

 子供が欲しくなかったわけじゃない。

 私の産む子供がいらなかっただけなのだ。

「今日から社交活動は一切禁止だ」

 広昭が続ける。

「出産まで、家でおとなしくしていろ」

「夏希はどうするの?」

「彼女との間に子供は作らない」

 恐ろしいほど冷徹な声だった。

「産まれたら、お前とどこかの男との子だということにする。夏希はあんなにお前を気に入ってるんだ、きっと自分の子のように可愛がるさ」

「そしてあの子が成長したら、俺たち三人の財産をすべて継がせる」

 彼の計画では、私は夫を失うだけでなく、彼らの子供を喜んで育て上げ、最終的には全財産をその子に譲ることになるらしい。

 もう十分だ、夏希。私は自分に言い聞かせる。

 この悪魔のために涙を流すのは、これでおしまい。

 彼にそんな価値はない。

 涙を拭い去り、音を立てずに寝室へ戻った。

 三十分後、広昭が寝室に入ってくる。

「愛しい人」

 彼は私の額にキスをした。

「数日出張に行ってくるよ。どうしても俺が処理しなきゃいけないプロジェクトがあってね」

 出張? 心の中で冷笑する。

 七海をプライベートクリニックへ連れて行き、安定期まで過ごさせるつもりだろう。

「分かったわ」

 私は従順に彼を見上げた。

「道中、気をつけてね」

「いい子だ」

 彼は満足げに私の髪を撫でた。

 彼が去ると同時に、私は計画を実行に移した。

 この家で生きた痕跡を、すべて消し去るために。

 五日目の朝、私は用意していた『贈り物』をダイニングテーブルに置いた。離婚届と、結婚指輪だ。

 届には、財産分与を放棄し、ただ離婚のみを求める旨を記してある。

 川原教授の手配した迎えを待っていると、スマートフォンが震えた。

 七海からのメッセージだった。

『親愛なる夏希へ。あなたがずっと子供を欲しがってたのは知ってるわ。奇遇ね、私、妊娠したの。もし持ち株を放棄してくれるなら、この子にあなたをママと呼ばせてもいいわよ。どうかしら?』

 もし真実を知らなければ、もし私がまだあの無邪気な夏希のままだったなら……。

 私は狂喜乱舞し、七海の子を自分の宝物のように慈しんだかもしれない。

 ベッドで絵本を読み聞かせ、言葉を教え、その成長を見守っただろう。

 だが残念ながら、私はもう真実を知っている。

『望み通り、株は放棄する』

 そう返信した。

 チャイムが鳴る。教授の使いの者だ。

 私は簡素な荷物を手に取り、一度も振り返ることなく、この鳥籠を後にした。

 車はゆっくりと別荘地を離れていく。

 市街地を抜ける際、車窓から見覚えのある場所が目に入った。中央公園の噴水広場だ。

 広昭と初めて出会った場所。

 今、彼はそこに立ち、七海を抱きしめている。

 二人は情熱的に、まるで世界には自分たちしかいないかのように口づけを交わしていた。

 私は唐突に悟る。部外者は、私の方だったのだと。

 私と出会うずっと前から、彼らは義理の兄妹であり、彼らが共有してきた時間は、私が知るよりも遥かに長かったのだ。

 その時、何かを感じ取ったのか、広昭がふと振り返った。

 私たちの視線が空中で交差する。

 彼の瞳に困惑と驚愕の色が走り、私の名前を呼ぼうとしたのか、その口が僅かに開く。

 私は無表情のまま彼を見つめ、ゆっくりと唇を動かした。

『さようなら』

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