第2章
分厚い曇りガラスが、完全に内側へと崩れ落ちた。彰人が鋭い穴へ腕を突っ込み、内側からかんぬきを外す。
彼はドアを蹴り開けた。夫が纏っていた礼儀正しい仮面は跡形もない。病的で、獲物を狙うような笑みが口元を裂く。
「驚かせるつもりだったのに、台無しにしてくれたね、可愛い人」
掠れた声でそう言うと、ジャケットの内側から狩猟用のナイフを引き抜いた。
「なら、汚いやり方でやるしかない」
逃げ場はない。濡れた背中が洗面台にぴたりと押しつけられる。
震える指で背後の収納扉を探り当て、手探りで中へ滑り込ませた。替えのタオルを避け、指先が業務用のタイル洗剤のボトルに触れる。ノズルを握り、腰の後ろに隠した。
膝を濡れた大理石に落とす。私は彼の正面、床へ沈み込み、濡れたまつ毛越しに見上げた。
「彰人、待って」
囁き声を、必死で甘く息を含む猫撫で声に作り変える。
彼は一瞬止まり、宙でナイフが揺れる。
「私、ずっと分かってた。拓実じゃ、私には物足りないって」
頬を伝う涙を一筋落としながら、わざと彼の腰元へ視線を落とす。
「無理やりなんてしなくていい。私が、あなたを満足させてあげる」
彰人は、喉の奥でひどく乾いた嘲笑を漏らした。身を屈め、刃の冷たい平らな面を私の頬に押し当てる。
「俺を馬鹿だと思ってるのか? 安い手だな。何のつもりだ」
「生き延びたいだけ」
私は従順に見上げたまま、小さく呟く。
ゆっくり手を伸ばす。震える指が、濡れた仕立てのいいズボンの前をかすめる。布越しの硬く重い輪郭をなぞり、狙いすました強い摩擦を与えた。
彰人がびくりと震える。抑えきれなかった低い嗄れ声が、唇から漏れた。
呼吸が詰まる。長年胸の奥に飼っていた剥き出しの執着が、彼の理性をあっさり短絡させた。彼は一歩近づき、腰を私の掌へ飢えたように押しつけてくる。
「なら、見せろ」
飢えで粘ついた声が掠れる。彼は私の濡れた髪を鷲掴みにして頭を反らせた。
「口を開けろ。やれ。今すぐ」
「その前に、準備させて」
私は囁いた。
冷たい金具のベルトバックルを外す。ズボンの腰を掴み、ぐいっと引き下ろした。
彰人は頭を仰け反らせ、瞼を震わせながら目を閉じる。口の熱を期待し、完全に警戒を解いた。
その快楽は、きっかり一秒で終わった。
私は重い革ベルトの垂れた端を掴み、引き下ろされたズボンの上からぐるりと回して、思い切り引き絞った。膝が開かないよう、きつく縛り上げる。
彰人の目が、困惑に見開かれる。
彼が手を上げるより早く、私は背後に隠していたボトルを引き抜き、ノズルを真正面から彼の顔へ向け、引き金を握り込んだ。
彰人が甲高く、獣じみた悲鳴を上げた。飛びかかろうとするが、膝を縛るベルトに足を取られ、前のめりに転ぶ。浴槽の縁へ顔から叩きつけ、ナイフを落とし、焼けるように痛む顔を両手で掻きむしった。
一拍も無駄にしない。私はのたうつ彼の身体を押しのけ、廊下へ飛び出した。
濡れた足が、木の階段をばたばたと打ち鳴らす。私は一階へなだれ込み、広い玄関ホールへ到達すると、重たい正面扉へ疲れ切った全体重を叩きつけた。
真鍮の取っ手をひねる。開かない。
もう一度、引きちぎるように引く。それでも動かない。かんぬき、チェーン錠――あらゆるものを試すが、全部が固着していた。
防犯パネルは真っ暗だ。電源を落とされた。つまり、非常時の自動ロックが作動している。
逃げられない。
二階の叫び声が、唐突に途切れた。
階段を下りてくる足音。
「本当に、気の強い小娘だな、雪乃」
踊り場に、彰人が立っていた。
片手で、顔の水膨れになり、ただれて滲む赤い皮膚を押さえている。ズボンは引き上げられていたが、視線は憎悪そのもので私に突き刺さった。
私はじりじりと後退し、巨大なベルベットのソファを間に挟むようにして居間の中央へ逃げる。
「どうして、こんなことをするの、彰人?」
腹の痛みに耐えながら息を詰め、私は腹部を押さえた。
「私を殺したって、拓実のお金は手に入らない。あなたに相続権はないでしょう」
彰人が低く、掠れた笑いを漏らす。歩きながら狩猟用ナイフの先を壁の石膏板へ引きずり、深い溝を刻んでいく。
「拓実はいつも全部手に入れる」
酸と血の混じった涙を頬から拭い、彼は鼻で嗤った。
「金色の優等生。汚れない評判。完璧な人生」
彼はソファを回り込み、さらに私を追い詰める。
「でもな、家庭内の激情で妊娠中の妻を惨殺した男は、すべてを失う」
彰人は毒を滴らせた声で囁いた。
「一生、牢で腐る。そして双子の兄弟が代わりに表へ出て、資産をまとめ上げればいい」
背筋が凍る理解が、鈍い衝撃となって私を殴った。彼は拓実に罪を着せるだけじゃない。夫の身分そのものを奪うつもりなのだ。
彼が飛びかかってくる。
私は重い飾り壺を彼の胸へ投げつけ、部屋の奥へ這うように走った。大きく張った腹が重心を狂わせ、動きが鈍る。肺が焼けるほど疲労が押し寄せる。
背中が、床から天井まである窓の冷たいガラスにぶつかった。行き止まりだ。
彰人がゆっくり近づく。手の中でナイフをくるりと回しながら。私の身体から立ち上る恐怖を、彼は味わっている。
「待って!」
私は叫び、両手を上げた。
「億万長者の人生を盗むつもり? 拓実の信託資産は、何週間も前に崩壊してる!」
彰人が足を止め、焼けていない肌に深い皺が走る。
「何千万って借金よ、彰人」
私は嘘をつき、声だけは必死に、しかし揺らさないようにした。
「だから毎晩書斎をうろついてるんじゃない。身分を奪えば、債権者も、訴訟も、破滅も全部抱え込むことになる」
彼の目に、濃い疑念がちらりと灯る。ナイフを握る指の力が、ほんのわずかに緩んだ。追い詰められた嘘が効いている。
そのとき、彰人のジャケットのポケットから、鋭い振動音がぶぶっと鳴った。
彼は携帯端末を取り出し、ひび割れた画面を親指で払ってから、通話をスピーカーに切り替えた。
居間の死んだ静けさを、夫の丁寧で上品な声が満たす。
「彰人」
拓実の声が反響する。
「終わったか? あの女はもう死んだのか?」
