第3章
私は彰人のスマホのひび割れた画面を見つめたまま、頭の中が完全に決壊していくのを感じていた。
「なんで出ない?」スピーカーフォン越しに、拓実の苛立った声が鋭く飛んでくる。
「約束、忘れてないよな、彰人。あいつが死んだら……」
彰人はそのスマホを差し出し、にやりと笑った。
「今ちょうどやってる、兄貴」彰人はしゃがれ声で答え、震える私の身体を舐めるように視線でなぞった。
「みっともなく抵抗してやがる」
「餌で遊ぶな。溺れさせろ。それからすぐ帝王切開だ。今夜中に、あの子を生きたまま取り出せ。そうじゃないと信託が確定しない。赤ん坊を連れて来れば、お前の一千万は海外口座に入れてやる」
拓実は一拍置き、声の温度が完全に消えた。
「しくじるな、彰人。やれ」
通話が切れた。
外では豪雨が、背後の天井まである窓を鞭みたいに叩きつけていた。けれど骨の髄に沈み込む寒気は、天気なんかとは無関係だった。
頭の中のジグソーパズルが、乱暴な勢いで一気に噛み合う。
重度の無精子症。百分の百、不妊。
拓実は私を裏切っていただけじゃない。堕落した地下格闘の双子の兄弟を雇って、私を殺させようとしただけでもない。
拓実は子どもを作れない。だが祖父の、途方もない額の信託は「血のつながった後継」を条件にしていた。だから私の清潔好きで潔癖症の夫は、最悪の侵害を仕組んだのだ。瓜二つの双子を、私の家に、私のベッドに連れ込んで。
私が彼らにとって妻だったことなど一度もない。私は繁殖用の牝馬。時間切れになった瞬間に腹を裂かれ、用済みとして捨てられるための、ただの培養器。
その瞬間、胸を締めつけていた目もくらむ恐怖が、ぷつりと音を立てて切れた。
彰人はくくっと笑い、スマホをベルベットのソファへ無造作に放り投げた。そして濡れたジャケットの内側に手を突っ込み、透明な液体が満ちた太いプラスチックの注射器を取り出す。
「安心しろよ、甘い子ちゃん」彰人は針先を弾くようにして言った。
「拓実は溺れてる間の一秒一秒を味わわせろって言ってたけど、俺は優しい男だ。この鎮静剤なら十秒で落ちる。腹を切ってガキを取り出す時も、何も感じねえ」
一歩、こちらへ。
私は後ずさりしなかった。叫びもしなかった。裸足の足裏を床にべたりと押しつけ、完璧に静止した。
「そこで止まって」
声は震えていなかった。あまりにも死んでいて、あまりにも不気味に落ち着いていて、彰人はわずかにたじろいだ。ブーツがラグの上で止まる。
「本気で、あいつが一千万を払うと思ってるの?」私は重たい空気を切り裂くように言った。
彰人の唯一まともな目が細くなる。
「黙れ、雪乃」
「自分のこと見てみなさい、彰人」顎を上げたまま、私は畳みかけた。
「拓実は自分の身体を神殿みたいに扱う。ハンドルだって漂白剤で拭く人よ。あなたのこと、心底のゴミみたいな目で見てる。お正月だって、客用のトイレすら使わせなかった。そんな男が、本当に一千万を、汚い秘密のあなたに渡すと思う?」
「黙れって言っただろ!」彰人が注射器を持ち上げる。
「あなたは口封じよ!」私は逆に一歩踏み出し、逃げるどころか距離を詰めた。手首のスマートウォッチの光る画面を指で叩く。
「これを見て。今すぐ!」
彰人は反射的に私の手首へ視線を落とした。
デジタル表示の上で、緑色の心拍モニターが一定のリズムで脈打っている。その下には赤いアップロードのアイコンが点滅し、雲のサーバーへの同期を示していた。
「二階で警告メールを見た時、ただ隠れただけじゃない」私は平然と嘘をつき、視線を逸らさず続けた。
「バイタルと連動した自動のデッドマンスイッチを起動したの。あなたがあの浴室のドアを蹴破った瞬間から、私の時計のマイクは全部録音してる。全部よ。拓実のさっきの電話も含めて」
彰人の動きが止まる。
「今この瞬間、音声ファイルは暗号化されたクラウドの下書きに置かれてる」言葉を機関銃みたいに叩きつける。
「私の心拍がゼロになったら――あるいは、あなたがこの時計を私の手首から外したら――プログラムが音声と、拓実の医療記録と、信託の詳細を、私の離婚弁護士と検察と読売新聞に直接送る」
赤い点滅を、彰人は凝視した。胸が大きく上下し始める。
「拓実、今ごろ慈善パーティーにいるんでしょう?」私はそっと言い、さらに近づき、開いた片目の奥に滲む真実を読み取った。
「カメラに囲まれて。目撃者に囲まれて。あなたが暗闇で汚れ仕事をしてる間に、完璧なアリバイを積み上げてる」
私は、彰人が白いラグの上に残した血の足跡を指し示した。二階の割れたガラスも。覆面のない、その素顔も。
「警察が来た時、拓実はいない。見つかるのはあなたよ。停電のために電源を落としたあなたの防犯映像。壊れたドアに残ったあなたの皮膚細胞。『億万長者の家に侵入し、妊娠中の妻を残虐に惨殺し、赤ん坊を奪った』錯乱した元受刑者――それが、あなた」
注射器を握る彰人の手が、震え始めた。
「拓実は全国放送で泣く」私は囁き、最後の致命打を落とす。
「『嫉妬に狂った双子の弟が家族を壊した』って。信託は手に入る。赤ん坊も手に入る。あなたには一円も渡らない、彰人。渡るのは致死注射よ。あなたは身代わりに仕立て上げられてる」
リビングの沈黙が、息もできないほど濃くなった。
彰人の頬の薬品火傷は透明な液を滲ませていたが、拭おうともしない。ただ私の時計の、一定に脈打つ緑のラインを見つめ続けていた。
あの卑しい執着の光は、目から完全に消えていた。そこにあるのは、むき出しの、破滅的な理解だけ。私は兄の筋書きを正確に並べてみせた。そして心の底で彰人は分かっている。私が正しいと。拓実はいつだって、彰人を踏み台にして上へ行った。今回は、踏むだけじゃない――埋めるつもりだ。
重たいプラスチックの注射器が、彰人の指から滑り落ちた。
彰人はゆっくりと視線を手首から上げ、血走った片目を私に合わせた。
今夜はじめて、怪物は私を獲物として見ていなかった。
地雷の上に立っていると気づいた男の目で、私を見ていた。
