第1章 彼女は妊娠した、会社にトラブルが発生。
彼女は、妊娠していた。
時期から考えれば、おそらく先月だ。二人にとって最後になった、あの一度。そしてその直後、伊沢赤司は離婚を切り出した。
三年間、彼女はずっと、彼との間に子どもが欲しいと願ってきた。なのに、その子が訪れたのは、皮肉にも離婚を目前にした今だった。
綾部栞は、悲しむべきなのか、喜ぶべきなのか分からなかった。親友から受け取った妊娠検査の報告書に、「妊娠確定」の文字を見つけた瞬間、その表情がかすかに揺れる。
「この子、来るタイミング最悪だよね。あんたも旦那さんも、もう離……」
立花芳南は途中で言葉を呑み込み、小さくため息をついた。
綾部栞は検査報告書をぎゅっと握りしめ、痛々しい笑みを浮かべる。声には苦みが滲んでいた。
「そうね。本当に、最悪」
あまりにも突然だった。不意打ちもいいところだ。
栞はひとつ息を落とし、低い声で言った。
「このこと、しばらくは誰にも言わないで」
立花芳南は「OK」のサインを作り、事情を察したようにうなずく。
二人は高校時代からの同級生だ。医大も一緒で、その後は海外で三年間研修を積み、今では同じ病院の別の科に勤めている。栞の結婚生活の実情を知る、数少ない一人でもあった。
帰ろうとする栞の背に、芳南が思わず声をかける。
「でも、もし産まないつもりなら、早めに決めたほうがいいよ。下半期には昇進の審査、あるでしょ」
「結婚か仕事か、どっちか一つくらいは掴まなきゃ」
その言葉に、栞の足がわずかに止まる。小さくうなずき、彼女はドアを開けて部屋を出ていった。
子どもは産む。けれど、この結婚はもう取り戻せない。
隣の診察室の前まで来たとき、医師の注意する声が耳に入った。
「佐野さん、しばらくはしっかり休んでくださいね。無理は禁物です。少し貧血気味ですから、血を補う食事を心がけてください。でないと赤ちゃんにも栄養が回りにくくなりますし、お産にも差し支えますよ」
「はい。ありがとうございます、太田先生」
そのやわらかく穏やかな声を聞いた瞬間、栞の表情がぴくりと変わった。
聞き覚えがある。
以前、夫の携帯から聞こえてきた声だ。
たしか――夫の初恋の相手。
角を曲がったあとも、栞はどうしても気になって、思わず振り返ってしまう。
小柄で儚げな女の隣に立つのは、冷ややかで気高く、近寄りがたい男。黒のシャツに、皺ひとつない黒のスラックス。禁欲的な雰囲気すら漂わせるその姿は、ひどく目を引いた。
どこにいても、人の視線をさらっていくような端正な顔立ち。
綾部栞は一瞬、息を止める。報告書を握る指先に、さらに力がこもった。
その男は、結婚して三年になる彼女の夫――伊沢赤司だった。
医師が貧血にいい食べ物をいくつか挙げると、華奢で愛らしい顔立ちの女は伊沢赤司の腕にそっと絡みつき、甘えるように言った。
「赤司、私、ほんと物覚えが悪くて……ちゃんと覚えておいてくれる?」
「分かった」
男はわずかにうなずく。いつもは氷のように冷たい深い黒の瞳に、今はたしかに淡いぬくもりが宿っていた。
見たことのない彼の一面だった。
胸の奥を鋭い痛みが掠めたが、栞はすぐにそれを押し殺す。
顔を伏せ、物陰から携帯を取り出して夫に電話をかけた。
一度目。切られた。
二度目。やはり同じ。
もともと彼女は、こうしてしつこくする性格ではない。けれど今日だけは、どうしても引き下がれなかった。三度目をかける。
ようやく繋がった。
「今、忙しい」
電話口の向こうから投げられたのは、それだけだった。栞が何か言う隙すら与えず、通話は一方的に切られる。
綾部栞は携帯を強く握りしめた。息をするたび、胸の奥がじくじくと痛む。
忙しい――そうだろう。
初恋の女を妊婦健診に連れてきて、食べるべきものまで覚えてやっているのだから。
二年前、自分が妊活をしていた頃、彼はこんなふうに根気強く寄り添ってはくれなかった。
栞は深く息を吸い、その場を離れようとした。だが少し離れた先から、あの女のやわらかな声がまた聞こえてくる。
「赤司、会社からのお電話? 私、時間取らせちゃった?」
「いや」
低い声で、ほとんど間を置かずに返す。まるで一秒でも遅れれば、彼女を不安にさせてしまうとでもいうように。
その声音を聞いた瞬間、栞の脳裏に浮かんだのは、自分に向けられていた彼の素っ気なさと、見下ろすような無関心だった。
この女のために、彼は離婚するのだ。
この一か月、彼から説明はひとつもなかった。届いたのは、冷えきった離婚協議書だけ。
栞は唇を引き結び、白衣のポケットに両手を入れたまま、物陰から歩み出る。
もともと背の高い彼女が白衣をまとえば、端正で控えめでありながら、どこか知的で凛とした空気をまとう。
綾部栞はうっすらと笑い、男の瞳に走った一瞬の乱れを見逃さなかった。
「奇遇ね」
噂は本当だったのだ。伊沢赤司の初恋の女が帰国した。だから彼は、こんなにも急いで離婚を進めていた。
たった一か月のあいだに、三度も弁護士を立てて話し合いを求めてきたほどに。
佐野小雪は、目の前の気品ある美しい女医を見つめ、目をかすかに揺らした。
それから親しげに伊沢赤司の腕にしがみつき、栞を見上げる。
「赤司、この方は?」
男は眉を深く寄せ、冷えた視線を綾部栞に落とした。そこにあるのは、ただ無機質な冷たさだけ。
「祖母が可愛がってる人だ」
結婚前、伊沢家の祖母は、栞と赤司が少しでも接する機会を増やそうと、何かと理由をつけて栞を伊沢家に呼んでいた。まるで本当の孫のように扱ってくれていた時期もある。
そんなこと、栞自身もうとっくに忘れかけていた。なのに、赤司は覚えていたらしい。
綾部栞は思わず笑みを深める。唇の端に浮かんだのは、露骨な皮肉だった。
「へえ。佐野さん、私のことをご存じなかったのね」
二重の意味を含ませたまま、栞は伊沢赤司を見上げる。目元には、薄い笑み。
「佐野さん、はじめまして。私は――」
言い終える前に、男が無表情のまま遮った。
「綾部先生、暇があるなら父親の顔でも見に行ったらどうだ。最近、相当参ってるはずだ」
寒々しい夜のような黒い瞳に、かすかな警告が滲んでいた。
栞はぴたりと止まる。喉元まで出かかった言葉は、そのまま飲み込むしかなかった。
「行くぞ」
伊沢赤司は最後に綾部栞を淡々と一瞥し、佐野小雪の手を取って彼女の横を通り過ぎる。
エレベーターに乗り込む間際、佐野小雪がふと振り返った。澄んだ瞳の奥に、意味の読めない感情が浮かんでいる。
伊沢赤司は、栞と結婚してから一度も、公の場で既婚者だと認めたことがない。
雲市で二人の婚姻関係を知る者は、ごくわずかだ。
彼にとっては、栞こそが自分に結婚を強いた女であり、佐野小雪を傷つけ、遠ざけた元凶なのだから。
胸がきりきりと痛む。ポケットの中で、栞の手は妊娠検査の報告書をぐしゃりと握り潰さんばかりだった。
そのとき、携帯が鳴る。
綾部家の執事からだった。零れそうになった涙を、栞は無理やり喉の奥へ押し込む。
「お嬢様、すぐ病院へお越しください」
「旦那様が……薬を大量に飲んで自殺を……。薬物中毒で、今、救命処置中です」
救急室。
駆けつけた綾部栞の目に、真っ先に飛び込んできたのは、救急室の前に背筋を伸ばして立つ綾部玉季の姿だった。気品のある装いに、冷ややかな気配をまとっている。
栞は急いで歩み寄る。
「お姉ちゃん、お父さんは――」
だが問いかけは、玉季の冷たい声に遮られた。
「会社のこと、伊沢赤司には話したの?」
「話し合いはどうなったの」
綾部グループは、いま深刻な資金難に陥っていた。すでに話がまとまっていた案件まで次々と解約を求められている。
もし伊沢赤司が手を貸してくれれば、この苦境をしのぎ、綾部グループは立て直せる。
栞はその問いに、ゆっくりとうつむいた。
「まだ……。私たち、離婚することになったの」
そう口にしながらも、玉季の表情を見ることができない。唇の端をきつく噛む。
綾部玉季は、信じられないものを見るような目で妹を見下ろした。
「……今、何て言ったの?」
綾部栞は唇を強く噛みしめる。
玉季は深く息を吸い込み、抑えきれない苛立ちをそのまま言葉に乗せた。
「栞。会社のことは複雑だから、私もお父さんも、あなたにはあまり話してこなかった」
「でも、私が伊沢赤司に頼ってって言った時点で、どれだけ切羽詰まってるか分かったはずよ」
「お父さんは今も中で生死の境をさまよってるの」
「あなたの自尊心は、お父さんの命より大事なの?」
