第3章 彼女をそんなにも長年誤解していた
林田さんは、伊沢婆さんが綾部栞と伊沢赤司の身の回りの世話をさせるため、わざわざ二人のそばにつけた使用人だ。
ふだんから、二人の暮らしぶりを伊沢婆さんへ報告している。
まさか林田さんが、自分の月のものの日取りまでここまではっきり覚えているなんて――。このところ、伊沢婆さんへずいぶん細かく伝えていたのだろう。
あの日、伊沢赤司を離婚届に署名させるため呼び戻したとき、わざと林田さんを外しておいて本当によかった。そうでなければ、今ごろはもう隠し通せなかったかもしれない。
「栞、最近ずいぶん仕事が忙しいんでしょう。まさか赤ちゃんができてるのに、自分で気づいてないんじゃないの?」
「今度、私が一緒に検査に行ってあげようか」
伊沢婆さんがそう言い終えた、ちょうどそのときだった。使用人が食堂の入り口に立つ伊沢赤司に気づく。
「若様、お帰りなさいませ」
そう言うなり、すぐに茶碗と箸を新しく用意し、椅子を引いた。
伊沢赤司は歩み寄って席に着く。その深い冷眸が綾部栞に落ち、わずかに探るような色を帯びた。
妊娠――。
彼の意識はたちまち先月のあの夜へ引き戻され、瞳の色がゆっくりと重く沈む。
絶対にありえない、という話でもない。
綾部栞はそっと唇を引き結んだ。向かいから突き刺さるような圧を感じ、気づかれないよう小さく息を吸う。感情を押し殺しながらも、どこか後ろめたくて、伊沢赤司の視線をまともに受け止められない。
「このところ科の患者さんが多くて、精神的な負担が大きかったんです。それで周期が乱れて、少し遅れているだけです」
「昨日、同僚に簡単に検査してもらいましたけど、妊娠はしていませんでした。今は薬で整えているところです」
声は淡々としていて、いつもの彼女と変わらない静けさを保っていた。
言い終えると、栞はうつむいてスープに口をつける。胸の内の張り詰めを隠すように、何でもないふうを装って。
否定の言葉を聞いた瞬間、伊沢赤司の胸の奥に、聞き慣れない感情がかすかによぎった。
だが、それも一瞬。
彼は無表情のまま視線を切り、胸をかすめた違和感ごと押し流すように、伊沢婆さんを見た。
「婆さん、俺を呼び戻したのは、何か用でもあるのか」
綾部栞が妊娠していないと知り、伊沢婆さんの胸はずしんと沈んだ。
不機嫌そうに伊沢赤司をひと睨みし、体面などお構いなしに言い放つ。
「私が呼ばなきゃ、この年寄りの顔ひとつ見に帰る気もないってわけかい?」
伊沢赤司は端整な眉をわずかに上げ、感情のない声で返した。
「そんなことはない」
伊沢婆さんはふん、と鼻を鳴らすと、脇に立てかけてあった杖を手に取り、伊沢赤司を見やった。
「おまえ、書斎へ来なさい」
その様子に、綾部栞ははっとして声を挟む。
「お婆さん、まだほとんど召し上がっていませんよ」
だが、伊沢婆さんは栞に向き直ると、さっきまでの険しさをやわらげた。
「お医者様に、夜はあまり食べるなって言われてるんだよ。栞はちゃんと食べなさい。私は赤司と、書斎で少し話すだけだから」
そう言って栞の肩をぽんと叩き、杖をつきながら食堂を出ていく。
伊沢赤司も冷えた顔のまま席を立ち、淡々と彼女を一瞥してから後を追った。
綾部栞は唇をきゅっと結び、手にしていたスプーンを置く。瞳の奥を、不安がかすめた。
書斎の扉は、ぴたりと閉ざされていた。
その前に立つ栞の耳に届くのは、伊沢婆さんの張りのある叱声。
「私が生きてる限り、あの女を伊沢家の門にまたがせやしないよ!」
綾部栞はそっと唇を噛んだ。話題が佐野小雪のことだと察し、静かに息を吸う。お婆さんをなだめようと扉に手を伸ばした、その瞬間――
中から、がちゃりと扉が開いた。
伊沢赤司のまとった濃い冷気が、真正面から押し寄せてくる。
綾部栞は一瞬足を止め、目の前の、頭ひとつ以上高い男を見上げた。
男は見下ろしていた。底の見えない黒い瞳には、砕けた氷の欠片みたいな冷たさが混じっている。
「年寄りの前で愛想よく取り入って、嘘まで並べて……次はどんな手を使うつもりだ」
綾部栞は息を呑んだ。整った杏色の瞳に、驚きと悔しさがにじむ。
「私は、何もしてません」
その表情の揺れを見た途端、伊沢赤司の胸の内に、理由の分からない苛立ちがふつと燃えた。
書斎の中から、伊沢婆さんの怒声が飛ぶ。
「自分が悪いことをしておいて、栞に当たるんじゃないよ!」
伊沢赤司は眉を寄せ、氷のような視線で栞をひと撫でし、そのまま通り過ぎていった。
使用人は慌てて書斎へ駆け込んでいく。
綾部栞は体の脇に垂らした手を、わずかに握りしめた。瞳の色は、ひどく暗い。
どれだけ隠し通そうとしても、伊沢婆さんが知りたいと思えば、誰かがそれを集めてくる。
病院で、伊沢赤司と佐野小雪があんなふうに堂々と並んでいれば、あの時点でお婆さんの耳に入っていても不思議じゃない。
それなのに伊沢赤司は、栞が告げ口したのだと決めつけている。
愛されない側は、何もしていなくても、全部の罪と理不尽を背負わされるのだろうか。
「大変です! お婆様が倒れました!」
唐突に、書斎の中から使用人の悲鳴のような声が上がった。
綾部栞は顔色を変え、すぐさま書斎へ駆け込む。
病院。
伊沢婆さんの容体は落ち着き、ほどなく一般病棟へ移された。
綾部栞は病室の外の椅子に静かに腰かけていた。伊沢赤司のあの凍えるような目を思い出すたび、胸の奥がちくりと痛む。
ふいに、目の前に影が落ちた。
顔を上げると、伊沢婆さんの病室から出てきた伊沢赤司が立っている。
無表情のまま、見下ろしてくる。
「婆さんがおまえに会いたいそうだ」
綾部栞はその言葉にすぐ立ち上がり、病室へ向かって歩き出した。
すれ違いざま、不意に腕を掴まれる。伊沢赤司の声は、体温を欠いたままだった。
「綾部栞。これでおまえの目的は果たせたな」
「婆さんの体のことがある。しばらくは離婚しない」
「だが、綾部家を助ける気はない。勘違いするな」
綾部栞の杏眸がわずかに揺れた。見上げた先の彼を、ただ黙って見つめる。
その目には、うっすら涙の膜が張っていた。
それを見た伊沢赤司の眼差しは、かえっていっそう冷えていく。掴んだ腕だけが妙に熱く感じられて、苛立ちを振り払うように手を離した。
綾部栞は乱れかけた感情をそっと整える。
伊沢赤司が、これを自分の策略だと思い込んでいる以上、もう何を言っても無駄だ。
だから、説明はしない。
離婚はする。けれど――今ではない。
病室の扉を開けるころには、彼女はもう笑みを取り戻していた。
「お婆さん、お加減は少しよくなりましたか」
伊沢婆さんは弱々しく手を持ち上げる。
綾部栞はすぐそばへ行き、その手をやさしく握って、傍らの椅子に腰を下ろした。
「栞……ここ何年も、つらい思いをさせたね。おまえは本当にいい子だよ。全部、私の我が儘のせいだ。おまえを縛りつけてしまった」
「昔、伊沢家が傾いたとき、手を差し伸べてくれたのは綾部家だけだった。おまえが赤司を想ってることも知っていたから、私はその機に乗じて、おまえたちの婚儀をまとめたんだ」
伊沢婆さんの声には深い歳月のくたびれがにじみ、皺だらけの目元はうっすら赤い。
その言葉を聞きながら、綾部栞の胸の内はひどく複雑に波打った。
伊沢婆さんは目尻を拭い、どうしようもない無力さを滲ませながら続ける。
「佐野小雪って女はね、見た目ほどおとなしくて上品な女じゃないよ。伊沢家に何かあった途端、真っ先に海外へ逃げたんだから」
「赤司は今でも、あの女の作り物の顔に騙されたままさ。おまえのことも、長いことずっと誤解したままでね」
