第6章 ほかの手術を断って、時間を空ける

医長は愛想のいい笑みを浮かべたまま、綾部栞を伊沢赤司の前へ連れていった。紹介しようと口を開きかけた、その瞬間――普段は穏やかで人当たりのいい綾部栞のほうが、先に言葉を放った。

「その方の執刀は、お引き受けできません」

その一言に、医長も佐野小雪も、そろって表情を強張らせる。

真っ先に反応したのは佐野小雪だった。

「どうしてですか?」

医長もまた、まるで同じ問いをそのまま顔に書いたような目で、綾部栞を見つめている。

綾部栞は、血の気の薄い紅い唇をわずかに持ち上げた。視線を伊沢赤司へと落とし、淡く微笑む。

「ここのところ手術の予定が立て込んでいて、とても時間が取れませんの」

「うちの科には、私より優秀な先生がまだまだいらっしゃいますし、医長もこの分野では大変腕の立つ方です。佐野さんの手術でしたら、むしろ私より安心してお任せできるかと」

それを聞いた医長は、綾部栞に持ち上げられた嬉しさを隠しきれず、顔をぱっと明るくした。では自分が――と名乗り出ようとした矢先、男の澄んだ声が割って入る。

「ほかの手術を外して、時間を空けてください」

伊沢赤司は綾部栞の真正面に立ったまま、ぴたりと動かない。表情に大きな起伏はないのに、無視できない圧がじわりと滲んでいた。

その目が綾部栞の上を静かに滑り、脇の医長へ向く。

「調整は可能ですか」

医長は綾部栞を見、次いで伊沢赤司を見る。二人のあいだに流れる空気が、どうにも妙だ――そう感じはしたものの、大局を思えば首を縦に振るしかない。

「ええ、もちろん可能です」

そう答えると、医長は綾部栞の袖をそっと引き、小声で囁いた。

「明日の簡単な手術なら私が代わる。君は安心して佐野さんを担当してくれ。病院への出資がかかってるんだ、頼むよ」

綾部栞は眉を寄せた。拒絶がそのまま顔に出る。重たい視線を、まっすぐ伊沢赤司へ向けた。

「ここ最近、精神状態があまり良くありませんの。それでも伊沢社長は、ご自分の恋人を私に任せて平気ですか?」

「手術台の上では、医療事故なんていつ起きてもおかしくありませんもの。どうか慎重になさってください」

医長の表情がぴくりと引きつる。気まずそうに笑い、慌てて伊沢赤司に頭を下げた。

「綾部先生は少しお疲れでして……。つい言葉が過ぎたようです。どうかお気になさらず」

綾部栞は顔をこわばらせたまま、くるりと背を向けてその場を離れた。

ふと顔を上げると、少し先に宮本西衛が立って待っていた。

宮本西衛はにこやかに手を振る。彼女の目元に滲む疲れを見て取ると、すぐに歩み寄り、ぽんと頭を撫でた。眼差しはどこまでも優しい。

「今にも崩れそうな顔してるな」

「そんなに疲れてるなら、今夜のデートはなしにしようか」

綾部栞ははっとした。

そうだ。宮本西衛は今夜、不動産業界の大物たちを紹介してくれると言っていた。綾部家が塩漬けにしている土地を買い取ってもらえれば、いくらかでも息がつける。

「いいえ。今夜は絶対に行きます」

「全然、疲れてなんかいません」

そう言うや否や、彼女は無理にでも気力を引き上げた。大股で自室へ戻り、白衣を脱ぎ、宮本西衛とともに病院をあとにする。

その背を見送りながら、佐野小雪がぽつりとこぼした。声には、うっすら羨望が混じっている。

「綾部先生の彼氏さんって、本当に大事にしてくれるんですね。朝は送りに来て、夜は迎えにも来て……」

そう言いながら、彼女はゆっくりと隣の伊沢赤司を見上げた。

だが、そこにあったのは冷えた顔だった。

陰った表情。深い目には名のつけようのない苛立ちが滲み、眼底は氷のように冷たい。

「坂東補佐を寄こします。入院手続きは彼に」

「私は用がありますので、これで」

伊沢赤司は冷え切った声を残し、そのままエレベーターへ歩いていく。足取りに、ためらいは一切なかった。

佐野小雪はその場に立ち尽くし、閉じていく扉を見つめる。

脇に垂らした手が、ぎゅっと強く握られた。

宮本西衛は綾部栞を連れ、そのまま会食の店へ向かった。

個室に入ると、空いている席は三つだけで、ほかはすでに埋まっていた。

宮本西衛は扉を開けるなり、まず綾部栞の椅子を引いて座らせ、それから場の面々へ笑顔で詫びる。

「申し訳ありません。少し道が混んでいて、遅くなりました。お待たせしましたね」

集まっているのは、雲市でも名の通った人物ばかりだ。

宮本家は雲市の旧家。ここ数年は国内を主戦場にしていないとはいえ、人脈そのものは絶えず繋いできた。

いまや宮本家の当主である宮本西衛の顔を立てようと、皆が思うのも自然だった。

「いえいえ、こちらも来たばかりですよ」

「とはいえ遅刻の罰として、今日は少し多めに飲んでもらわないとね」

宮本西衛は笑って応じる。

会食が始まると、宮本西衛は綾部栞に細やかに気を配った。その親密さは誰の目にも明らかで、自然と一同の関心も綾部グループへ向いていく。

綾部グループ名義の案件の話になると、綾部栞もきちんと受け答えができた。そこへ宮本西衛が脇からうまく話をつなぐ。すると、南郊の土地に興味を示す者も少しずつ出てくる。

だが、その空気を断ち切るように、扉の外から低い声が落ちた。

「今の雲市は、西郊から北区にかけて開発の重心が移っている。綾部グループが持つ南郊の土地は、この先10年見ても伸びしろは薄い。投資先としては、あまり魅力的ではありませんね」

「宮本さんは帰国されたばかりですし、雲市の市場や今後の流れについては、もう少し把握されたほうがいい」

伊沢赤司だった。

声音は淡々としているのに、綾部栞にはその奥にわずかな嘲りがはっきりと聞こえた。

彼が姿を見せた途端、席にいた全員が立ち上がる。

「伊沢社長、急用で来られないと伺っていたものですから……」

「お待ちせず先に始めてしまい、失礼いたしました」

この席を取り持った仲介役などは、慌てて立ち上がり、自分の席を譲ろうと駆け寄った。

「伊沢社長、どうぞこちらへ――」

けれど伊沢赤司はその男を一瞥すらしなかった。

何気ない手つきで綾部栞の隣の椅子を引き、そのまま腰を下ろす。

途端に、周囲の気圧がすっと下がった気がして、綾部栞は反射的に背筋を伸ばした。

やっぱり――。

この人が、私を楽に済ませてくれるはずがない。

綾部グループを助けてくれないだけならまだしも、わざわざ商談の場に出てきてまで邪魔をするなんて。

場の空気はあからさまにぎこちなくなる。

綾部栞はそっと唇を噛み、横目で伊沢赤司を見た。

伊沢赤司もまた、静かに彼女を見返していた。

先ほど人の商売をかき乱した張本人とは思えないほど、落ち着き払った顔で。

周囲は慌てて席に着き直し、なんとか場を和ませようとする。

綾部栞も赤い唇をきゅっと結び、感情を押し込めた。何か言わなければ――そう口を開きかけたとき、先に宮本西衛が声を上げる。

「いや、それは一概には言えませんよ」

「伊沢社長はお忘れかもしれませんが、南郊には千年の歴史を持つ古刹があります」

伊沢赤司は目を沈めた。

視線が綾部栞と宮本西衛のあいだで数秒止まる。

その墨のように深い瞳の奥に、綾部栞は確かに皮肉の色を見た。

このまま彼が宮本西衛へ反論したら――この土地の話は完全に潰れる。

そう思った瞬間だった。

綾部栞は机の下で、素早く手を伸ばした。

そして伊沢赤司の腿に、そっと掌を置く。

これ以上、余計なことを言わないで。

そう願うように。

ふいに触れた、柔らかな手。

伊沢赤司の目尻がわずかに上がる。底の見えない眼差しが、白く細いその手へと落ちた。

触れられた一帯だけ、じわりと小さな火が灯ったようだった。

当の本人は平然とした顔を装い、彼のほうへ目を向ける。唇に浮かべたのは、見るからに作り物の笑み。

「伊沢社長。たしかに南郊は市の中心開発エリアからは外れています」

「ですが、千年古寺を軸に商店街を再編し、観光資源として外から人を呼び込む形なら、十分に商業価値は見込めるのではありませんか?」

伊沢赤司は彼女を見つめたまま、切れ長の目をすっと細めた。

値踏みするように。あるいは、焦らすように。

綾部栞の胸がどくりと鳴る。

綾部家が南郊の土地を手放せるかどうか。

今、この男の返答にかかっている。

形のいい杏色の瞳がかすかに揺れた。

ただひたすら、彼の口から自分の言葉を台無しにする一言が飛び出さないことを祈る。

「……そうですね」

伊沢赤司は淡々と答えた。

いつもの無機質な声に、かすかな掠れが混じる。

「そういう構想なら、価値はあるでしょう」

その言葉に、綾部栞は胸の内でそっと息をついた。

机の下の手を引こうとする。

だが次の瞬間――男の手が、その手を上から強く押さえ込んだ。

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