第7章 綾部栞、自分の立場を忘れるな

綾部栞の瞳に、ふっと理解できない色が走った。顔を上げ、伊沢赤司を見つめる。

だが伊沢赤司は、理由も分からないまま口元だけをわずかに歪めたかと思うと、次の瞬間には手を放していた。

綾部栞は戸惑いながら、そっと自分の手を引っ込める。

その横で、宮本西衛の目つきがわずかに沈んだ。箸を握る手に血管が浮き、青筋が立つ。それでも感情を抑え込み、柔らかな表情のまま綾部栞に料理を取り分ける。

綾部栞はその変化に気づかず、小さく頭を下げた。

「ありがとうございます」

食事の席で、宮本西衛は終始、守護騎士のように立ち回った。明日も手術がある綾部栞は酒を飲めない。だから彼は、勧められる杯を片っ端から引き受け、彼女の前に盾のように立った。

宴が終わる頃には、宮本西衛の足取りにははっきりと酔いが滲んでいた。

席を立つと、誰かが宮本西衛の肩をぽんと叩き、綾部栞に向かってからかうように言う。

「宮本さん、綾部嬢のこと大事にしすぎですよ。綾部嬢も戻ったら、宮本さんをしっかり看病してあげてくださいね」

綾部栞は耳まで熱くなり、困ったように目を泳がせた。

その瞬間、宮本西衛が身体を彼女のほうへ寄せる。彼は手を伸ばし、彼女の椅子の背に腕を預けた。距離が近い。息がかかるほどの親密さが、空気を曖昧に濁らせる。

「心配しなくていいですよ。栞は大人しくて優しいから、俺のこともちゃんと面倒見てくれる」

伊沢赤司の整った顔に、冷えた膜が張る。黒い瞳が沈み、ゆっくり椅子から立ち上がった。

綾部栞を一瞥。

鼻で笑うように小さく息を吐き捨て、そのまま踵を返して出ていった。

綾部栞は呆然としたまま、なぜ機嫌を損ねたのかも分からない。

今夜、宮本西衛は何度も自分の代わりに酒を引き受けてくれた。綾部栞の胸には、ありがたさが残っていた。

もともと接待の席は得意じゃない。しかも途中、伊沢赤司に掻き乱されかけた。宮本西衛が支えてくれなければ、さっきの席では緊張で声すら出なかったかもしれない。

「西衛……立てる?」

綾部栞は腰を落として様子をうかがう。宮本西衛の視線はとろんと揺れ、すでに酔いが深い。

彼女は彼の腕を自分の肩に回し、椅子から引き起こした。腰に腕を回して力加減を調整しながら、よろよろと外へ向かって歩き出す。

その様子を、車内から伊沢赤司が見ていた。

綾部栞の手が宮本西衛の腰を抱え、二人がふらつきながら出てくる。伊沢赤司の目が一気に冷え、闇が落ちる。

運転席の坂東補佐は、周囲の気圧が下がるのを肌で感じた。ホテルの出入口をちらりと見て、喉を鳴らしてから恐る恐る口を開く。

「伊沢社長……奥様のお手伝いに行ってまいります」

伊沢赤司は窓の外から視線を引き剥がすと、無表情のまま何も答えない。

だが坂東補佐は、長年の経験で察していた。彼は車を降り、足早に綾部栞のほうへ向かう。

「奥様。私が……お預かりします」

綾部栞は、先ほどまで四時間以上の手術をしていた。疲労は限界で、酔った宮本西衛を支えるのは正直きつい。坂東補佐が来てくれたのを見るや、すぐに宮本西衛を託し、手を挙げてタクシーを止めた。

坂東補佐は宮本西衛を後部座席へ寝かせる。

綾部栞は助手席のドアを開けて乗り込み、坂東補佐へ短く礼を言うと、運転手に告げた。

「四季ホテルまでお願いします」

坂東補佐は、本当は言うべきだった。伊沢赤司が車の中で待っている、と。

だが、綾部栞はそのままタクシーで宮本西衛と一緒に走り去ってしまった。

坂東補佐は気まずそうに振り返る。少し離れた場所に停まる高級車――その後部座席から、自分を殺しかねない視線が突き刺さってくるのを感じた。

四季ホテル。

綾部栞は宮本西衛をタクシーから引きずるように降ろし、ふらつく身体を支えながらロビーへ入った。途中、宮本西衛は堪えきれず、とうとう吐いた。

その匂いに、妊娠初期の綾部栞の胃も反応する。

「……っ」

こみ上げる吐き気。喉がひゅっと鳴り、彼女も思わずえづいた。

四季ホテルは宮本家の運営する施設だった。責任者が駆け寄り、泥酔の宮本西衛を見るなり顔色を変える。

「すぐお部屋へ」

宮本西衛は手早く部屋へ運ばれた。

責任者は、綾部栞の服に吐しゃ物が広がっているのを見て、すぐフロントへ指示を飛ばす。

「綾部様にお着替えを。別室をご用意して、洗っていただいてください」

綾部栞は案内され、洗い流して着替えた。だが、清潔な服に替えても、吐き気は収まらない。えづいて、えづいて、胸の奥にあの匂いが居座っているようだった。

責任者が心配そうに声をかける。

「綾部嬢、今夜はこちらでお休みになっては……空いているスイートもございます」

綾部栞は首を振り、二度ほど小さくえづいてから、丁寧に断った。

「明日も仕事なので。それに、家に患者さんの資料を置いてきていて……」

そう言って、彼女はホテルを出る。

夜風が頬を撫で、胃のむかつきがようやく少しだけ引いていく。

運転席の坂東補佐は、後ろを窺うようにルームミラーを見た。

後部座席の伊沢赤司は、氷の刃みたいな目で綾部栞のほうを見ている。表情は、今にも滴り落ちそうなほど重い。

坂東補佐は息を呑み、声も出せない。

綾部栞が宮本西衛とホテルへ入ってから四十分。しかも出てきた綾部栞は着替え、髪が濡れている――まるでシャワーを浴びた直後のようだった。

大人なら誰でも、そこから連想するものがある。

「……走れ」

伊沢赤司が低く命じる。

坂東補佐は反射的に頷き、すぐエンジンをかけた。車は闇を切り裂くように走り去る。

綾部栞がタクシーを捕まえたのは、十分以上待ってからだった。

帰宅した頃には、すでに0時を回っている。

玄関を上がり、リビングへ足を踏み入れる。靴を替えた、その瞬間――冷えきった美貌が視界に入った。

伊沢赤司。

綾部栞は立ち尽くす。まさか、家にいるなんて。

先月のあの一件以来、伊沢赤司はここへ足を踏み入れようとしなかった。あの日、彼が彼女を送り届けた時でさえ、玄関を越えなかったのに。

伊沢赤司の鋭い視線が、彼女の全身をなぞる。玄関先に立つ綾部栞は、驚きで血の気が薄い。その様子が気に食わないのか、男の顔がさらに暗くなる。

「こっちへ来い」

感情のない声音。拒めない命令だけが乗っていた。

綾部栞は唇を目立たぬよう噛み、ゆっくり歩み寄る。

「何か……」あるの?

最後まで言い切る前に、男の声が落ちる。凍てつく風のように鋭い。

「服を脱げ」

綾部栞の身体が、わずかに震えた。意味が分からず見つめ返し――そして、伊沢赤司の疑念に気づいた瞬間、表情が固まる。

「……私と宮本西衛を疑ってるの?」

横に控えていた林田が慌てて口を挟む。

「若様、きっと何かの誤解でございます。奥様はそのような――」

「黙れ」

伊沢赤司が遮る。

再び、冷えた声。

「服を脱げ」

怒気が、わずかに滲む。

綾部栞は唇を強く噛み、視線を落とした。淡々と、ボタンを外していく。指先は冷たい。

林田が青ざめて、綾部栞の手を掴む。

「奥様、やめてください……」

綾部栞はその手をそっと押し戻した。

「林田さん、大丈夫。女同士だもの。私は平気です」

そう言って、シャツを脱ぐ。

林田は耐えきれず、顔を背けた。

白い肌が空気に晒されても、伊沢赤司は止めない。

綾部栞は背中に手を回し、さらに留め具に指をかけた。

伊沢赤司は、冷えた顔のまま彼女を見つめていた。潔白を示すように、意地だけで立っているその姿が――なぜか癇に障る。

次の瞬間、男が乱暴に立ち上がる。

がしっと衣架からスーツの上着を掴み取り、綾部栞の肩に叩きつけるように包み込んだ。

陰鬱で冷たい視線。刃のような警告。

「綾部栞――自分の立場を忘れるな」

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