第1章 妊娠したのに離婚協議書を受け取った
「おめでとうございます。ご懐妊です。8週ですね。胎芽も心拍も確認できていますよ」
霧島絢香は手にした妊婦健診の報告書を見つめ、指先がかすかに震えた。
九条雅人との協議婚姻は、あと3か月で期限が切れる。こんなタイミングで妊娠が判明するなんて——喜ぶべきか、悲しむべきか、自分でも分からない。
一緒に付き添ってくれた親友の浅倉夕菜が、彼女の手から報告書を受け取り、からかうような目で覗き込む。
「霧島大先生、この時期に妊娠って……海外、行けるの?」
先月、M市の有名デザイン会社からオファーが届いた。九条雅人と離婚したら、そこで新しい人生を始めるつもりだった。
なのに、突然やってきたこの子の存在が、すべての計画を狂わせた。
霧島絢香は口元に無理な笑みを貼り付ける。
「……帰ったら雅人と相談してみる」
そう口では言いながら、胸の奥に自信なんて欠片もなかった。
結婚して3年。九条雅人はずっと、冷たくもなく優しくもない——ただ一定の距離を保ち続けたまま、感情を見せたことなど一度もない。
そもそも、この結婚は最初から利害の交換にすぎなかった。
絢香は長いあいだ彼に想いを寄せていた。けれど彼が欲しかったのは「九条夫人」という肩書だ。家の縁談攻勢をかわすために。
夫婦というより、共同事業のパートナー。そんな関係。
霧島絢香は報告書をぎゅっと握りしめた。
本当は——この子が欲しい。九条雅人と自分をつなぐ、唯一の絆になり得るから。
気づけば、スマホを取り出して九条雅人に電話をかけていた。
——出ない。
諦めきれずに何度もかける。しかし、やはり応答はない。
強い喪失感が胸に押し寄せる。スマホを下ろし、帰ろうとした、そのとき。
産婦人科の廊下の突き当たりで、見慣れた後ろ姿が目に入った。
九条雅人。
きっちりとしたグレーのスーツ。冷ややかな気配を纏っている。その彼が、ひどく慎重な手つきで、か弱い女性を支えながら別の診察室から出てきた。
——あの女。
九条雅人の引き出しの奥で、何度も見た写真の人物。
元恋人、桜井陽菜。
桜井陽菜は顔色が悪く、九条雅人の胸元にもたれながら、柔らかな声で言った。
「雅人、ごめんね……また迷惑かけちゃって。でも、赤ちゃんがすごくやんちゃで……」
「大丈夫だ」
九条雅人はそっと彼女を抱き寄せ、ゆっくり歩く。その過保護なほどの慎重さ——霧島絢香は一度も見たことがなかった。
……彼にも、こんなに優しい表情があったのだ。
心臓が、ぎゅうっと縮む。痛みが波のように襲ってくる。
九条雅人が何かを察したのか、こちらへ視線を向けた。
霧島絢香は咄嗟に廊下の角へ身を隠し、気まずい遭遇を避けた。
自分でも分からない。なぜ隠れたのか。
本来、妻は——自分のはずなのに。
ただ、九条雅人が桜井陽菜に注ぐ甘い眼差しを見た瞬間、反射的に逃げたくなった。
「どうしたの?」
立ち止まった絢香を見て、浅倉夕菜が首をかしげる。
霧島絢香は首を振り、作り笑いでごまかした。
「なんでもない。行こう」
もう一度だけ、あの方向を振り返る。
九条雅人は桜井陽菜を支えながらエレベーターへ向かっていた。彼の手のひらは彼女の腰に優しく添えられ、二人はまるで仲睦まじい夫婦に見えた。
——桜井陽菜のお腹の子は、九条雅人の子なのでは。
そんな疑いが、胸の奥で黒く膨らむ。
3年前。霧島家は政略結婚を迫られ、九条雅人は家業を守るために妥協せざるを得なかった。
彼は桜井陽菜にプロポーズしたが、陽菜は学業を理由に首を横に振り、海外へ渡る道を選んだ。
その後、霧島知世の取り決めで、無名に等しい霧島家の次女である霧島絢香と、3年限定の協議婚約を結ぶことになった。
そして今。桜井陽菜が帰国し、協議はちょうど期限を迎えようとしている。
——席を譲るべき時なのだ。
霧島絢香は一人で九条家の別荘へ戻った。
妊婦健診の報告書を引き出しの奥深くにしまい込み、頭の中では九条雅人と桜井陽菜が寄り添う光景が何度も再生され、胸の内はぐちゃぐちゃだった。
妊娠を告げるべきか。告げたところで——彼は、少しでも喜ぶのだろうか。
霧島絢香はふっと苦笑する。自分でも分かる。そんな期待、幼すぎる。
考え込んでいると、玄関の扉が静かに開いた。
九条雅人が帰ってきた。
霧島絢香の身体がこわばり、反射的に立ち上がる。いつものように迎えに出ようとした。
九条雅人は玄関で一瞬だけ足を止め、細長い目で彼女を一瞥すると、手にしていた書類を無造作に差し出した。
受け取って見た瞬間、霧島絢香の視界が揺れた。
——離婚協議書。
胸に重いものを落とされたように、心が沈んでいく。この日が来ることは分かっていた。けれど、現物が目の前に突きつけられると、自分が想像以上に脆かったと痛感する。
「協議の期限が近い。離婚しよう」
九条雅人の声は低く、冷静で、感情が一切ない。
霧島絢香は震える指で協議書を受け取ったまま、ページを開けない。視線は整った顔立ちの冷たい横顔に吸い寄せられ、喉が詰まった。
やがて、彼女は必死に言葉を絞り出す。
「雅人……もし、もしもなんだけど……私が妊娠してたら、その子……欲しい?」
九条雅人の眉がわずかに寄り、目に疑問が走る。
「妊娠?」
彼の視線は絢香の下腹部に落ちた。
「毎回、避妊してただろ。どうして妊娠する」
「……もしもの話」
霧島絢香は俯き、声がどんどん小さくなる。
九条雅人はじっと彼女を見つめ、しばらくしてから静かに言った。
「要らない」
——砕ける。
期待も、葛藤も、すべてが音を立てて崩れた。
九条雅人は彼女の真っ青な顔を見て、訝しむように聞く。
「本当に妊娠したのか?」
霧島絢香は首を振り、無理やり口角を上げた。
「冗談だよ」
九条雅人はようやく息をつき、不機嫌そうに言い捨てた。
「そんなことを冗談にするな。最近、度が過ぎる」
そう言うと背を向け、階段を上がって書斎へ消えた。
霧島絢香は彼の真っ直ぐな背中を見送りながら、目の奥がじわりと熱くなるのを止められなかった。
寝室へ戻り、スーツケースを引っ張り出す。自分の衣類を一枚ずつ詰めていく。
片付け終え、そっと下腹部に手を当てた。胸に苦みが広がる。
ねえ、どうしよう。パパは……私たちを要らないって。
九条雅人が自分を好きではないと分かっていても、3年間、従順な妻を演じ続けた。
けれど——愛のない男を温めることはできない。
霧島絢香は協議書の中身すら見ず、署名欄に迷いなく名前を書き入れた。
