第3章 離婚協議に署名する
「何だと!」
九条雅人の顔色がさっと変わり、霧島絢香の言葉を最後まで聞く間もなく、大股で階段を駆け下りていった。
部屋に残ったのは、霧島絢香ひとり。
彼女は口を開きかけて――結局、「私、妊娠してるの」と言えないまま飲み込んだ。
九条雅人が取り乱すところを見たのは、これが初めてだった。
九条雅人は沈着で淡々としている。幼い頃から九条家の後継として育てられ、感情は外へ出すなと叩き込まれてきた男だ。会社の億単位の案件でも、眉ひとつ動かさない。
それが今は、桜井陽菜が倒れたと聞いただけで顔色を変えた。
あの冷たい横顔に浮かぶ「心配」の色を――自分に向けたことが、一度でもあっただろうか。
霧島絢香の小さな顔に、苦さと暗さが滲む。胸の奥が、ちくちくと痛んだ。
階下から使用人たちの騒ぐ声が聞こえる。
そして、九条雅人が自ら運転して桜井陽菜を病院へ運ぶ――エンジン音まで、かすかに届いた。
霧島絢香はふっと笑ってしまった。
笑って、笑って――気づけば涙が落ちていた。
三年の契約。
彼女は日の当たらない影みたいに、名ばかりの結婚を守り続けた。
時間が経てば情が芽生え、九条雅人がいつか振り返ってくれると信じていた。
でも待っていたのは、離婚協議書と――高嶺の花との復縁の気配。
だったら、九条雅人に子どものことを知らせる必要なんてない。
自分の子が、別の女を母と呼ぶ未来なんて耐えられない。
今ここで終わるのが、きっと一番いい。
涙を拭い、霧島絢香は衣装部屋へ入って荷造りを始めた。
この三年、九条家で増えた私物は驚くほど少ない。服よりも専門書ばかり買っていたせいで、スーツケース一つで全部収まる。
詰めるのは自分の衣類だけ。
九条美幸から贈られた宝飾品もブランドバッグも、指一本触れない。きれいに元の場所へ戻した。
彼女が欲しかったのは、そんなものじゃない。
霧島絢香はスーツケースの取っ手を引き、机の前に立つ。離婚協議書を見下ろして――迷いなく署名した。
それから、もう一度も躊躇わずに踵を返す。
今回は、振り返らない。
これから先、彼女は九条夫人ではない。
霧島絢香として生きる。
……
九条雅人が病院から戻ったのは夕方だった。
医師の話では、桜井陽菜は低血糖による一時的な失神で、大事には至らないという。
玄関を開けた瞬間、家の中は真っ暗だった。
いつもなら、どれだけ遅く帰っても霧島絢香はソファで本を読んで待っていた。九条雅人の姿を見ると、すぐ本を置き、目を輝かせて駆け寄ってくる。
「ご飯食べた?」「疲れてない?」と、しつこいほどに。
なのに今日は、灯りすら点いていない。
離婚を切り出したから怒っているのか。
それとも、提示した条件が少ないと思ったのか。
九条雅人は眉をひそめ、低い声で呼びかけた。
「絢香、降りてこい。話をする」
返事はない。
「疲れてる。付き合ってる暇はない」
なおも沈黙。九条雅人は黒い瞳を細めた。
もう寝たのか?
二階へ上がり、ふと書斎へ視線をやる。
机の上に、広げられた離婚協議書。
霧島絢香の署名が、はっきりと入っていた。
九条雅人の目が危険に細まる。胸の奥に、言いようのない重さが広がった。
協議書を手に取り、細部まで確認する。――偽造ではない。
なぜだか、苛立ちが湧いた。
あの癖のある綺麗な字を見ていると、どうにも自分の署名ができない。
この一筆で――本当に戻れなくなる。
理由の分からない苛立ちが膨らみ、九条雅人はペンを机に投げ戻した。
ぱん、と鈍い音。
九条雅人の目が暗く沈む。
たかが契約結婚。三年で終わり。円満解散。
最初から決めていた結末だ。
なのに――あの女は、何の未練もないように署名した。
今までの愛想も、全部演技だったのか?
苛立ちのままネクタイを乱暴に緩め、無意識に机の上のティーカップに手を伸ばす。
――空っぽだ。
いつもなら、書類仕事の間、霧島絢香が落ち着くお茶や滋養スープを用意していた。
ぶぶっ――
その時、スマホが震えた。
九条雅人は鼻で笑う。
「結局、俺を頼るのか。最初からそうすればいいものを」
霧島絢香からだと決めつけて画面を見ると、表示されていたのは「桜井陽菜」。
指先に力が入る。
九条雅人は短く沈黙して、通話を取った。
「……もしもし」
桜井陽菜の声は柔らかいが、微かに震えている。
「雅人、まだ少しふらふらするの。来て、そばにいてくれない?」
「病院に一人だと、怖くて……」
普段なら向かったかもしれない。
だが今、九条雅人は眉を寄せた。
「医者は低血糖だと言った。付き添いも手配してある。安心しろ」
「会社の用がある。切るぞ」
桜井陽菜が何か言う前に、通話を切った。
受話器の向こうで、桜井陽菜の顔から儚さが消え、陰が差した。
スマホを握りしめ、爪が掌に食い込む。
九条雅人は会社にいない。きっと家に戻ったのだ。
霧島絢香という女、まだしがみついている?
その瞬間、桜井陽菜の目に計算の光が走った。
――
一方、霧島絢香は疲れた身体を引きずって、自分のアパートへ戻っていた。
結婚前に買った、小さな60㎡ほどの1LDK。
狭いけれど、温かい。
ここは本当に、自分だけの場所だ。
スーツケースを隅に置き、ソファに崩れ落ちる。
しばらくしてスマホを取り出し、連絡先の一つに目を止めた。
ここ数年、国際的に名を上げてきたデザイン会社。
ミニマリズムと東洋美学の融合――それは霧島絢香の理念そのものだった。
三年前、彼女はそこへ応募したことがある。デザインディレクターの林田奈々が作品を一目で気に入り、直々に電話をくれた。P市本部のポジションまで申請してくれると言って。
けれど当時の霧島絢香は九条雅人で頭がいっぱいで、断った。
今なら――。
霧島絢香は深く息を吸い、電話をかけた。
すぐに繋がる。
「霧島絢香さん?」
林田奈々の快活な声。
霧島絢香は唇を結び、丁寧に言う。
「はい。林田ディレクター、お世話になっております」
数秒の沈黙のあと、淡々とした声に、親しみが混じった。
「どうしたの。専業の奥さま、やめる気になった?」
霧島絢香はほんの少し笑って、ようやく本物の笑みを浮かべる。
「私事で、少し足止めしてしまって……すみませんでした」
