第4章 おばあちゃんが彼女に帰宅を命じる

「うん、大丈夫。入社申請はもうメールで送ってあるよ。いつ来られる?」

そう言われて、霧島絢香は一瞬だけ言葉を切った。――早いほどいいに決まっている。

「こっちの用事を片付けたら、3日以内には出発できます」

「いいね!」林田奈々は即答した。彼女の潔さがよほど気に入ったのだろう、声まで弾んでいる。

「来たら次のシーズンの新作発表、一緒にやろう。あなたのデザイン、信じてる!」

――これで、入社は決まった。

通話を切ると、霧島絢香は唇をきゅっと結び、出窓のところに腰を下ろして、街角をぼんやり眺めた。

気づけば手が下腹部へ伸びる。

口元の笑みが、少しだけ柔らかくほどけた。

大丈夫。ママがちゃんと守るからね。

ゆっくり立ち上がり、栄養のあるものでも作ろうとキッチンへ向かう。

――けれど、足を踏み入れた途端、スマホが鳴った。

画面に表示されたのは「祖母」。

霧島絢香は息をのむ。

九条美幸。九条家の中で、唯一、心から自分を大事にしてくれた人。

彼女は慌てて通話を取り、明るく装って言った。

「もしもし、おばあさま。どうしたの?」

「絢香、今どこにいるの?」

美幸の声は穏やかで、慈愛が滲んでいた。

霧島絢香は一拍迷ってから、ぎこちなく嘘をつく。

「友だちと外で買い物してるの」

年のわりに美幸は遊び好きで、流行にも明るい。以前は本邸に呼ばれて、一緒に動画を撮り、SNSに上げたこともある。

けれど今日は、軽口はなかった。

「絢香、本邸に来なさい。話がある」

胸の奥が、どくんと跳ねた。

――気づかれた?

「……うん。すぐ行く」

それから一時間後。九条家の本邸。

深い緑に囲まれた敷地の奥に、数寄屋造りの壮麗な別荘が佇んでいる。ここら一帯は、文字通りの一等地だ。

タクシーを降りるなり、霧島絢香は足早にホールへ入った。口元に無理な笑みを貼り付ける。

「おばあさま、そんなに急に……お身体、具合でも?」

ソファに座る美幸は和やかな顔をしていたが、目の奥に薄い心配が滲んでいる。

「絢香、こっちに座りなさい」

そして、まっすぐ言った。

「使用人から聞いたわ。雅人のあのバカたれと離婚するって。本当?」

――やっぱり。

霧島絢香は動きを止め、しばらくして小さく頷く。

「……うん。本当」

美幸は彼女の手を掴み、鼻を鳴らした。

「ほらね! やっぱり! あのバカたれが、あなたをいじめたの?」

「絢香、怖がらないで。おばあちゃんが味方よ!」

そう言って、美幸はスマホを取り上げた。

スマホケースは、彼女と霧島絢香たちの顔写真をあしらったオーダーメイド品だ。チックトックの加工で撮った大きな顔写真だ。九条雅人は当時、露骨に不服そうだったのに、美幸の圧に押し切られて写っていた。

霧島絢香はその画面を見るたび、苦笑するしかない。

「おばあさま、雅人のせいじゃなくて、私が――」

最後まで言わせず、美幸が遮った。

「聞いてやるわ。あのクソガキ、私の言うことまで聞かなくなったのかって!」

「絢香以外、誰も私の孫嫁に相応しくない。外の汚いのが九条家に入るなんて、絶対に許さない!」

そのまま、美幸は九条雅人にビデオ電話をかけた。

霧島絢香は膝の上で指を絡める。胸の中がぐちゃぐちゃになって、思わず苦笑が漏れた。

庇ってくれるのは嬉しい。けれど――雅人と自分は、もう戻れない。

次の瞬間、美幸はスマホを顔の前に突き出す勢いで怒鳴った。

「九条雅人! 今すぐ本邸に戻ってきなさい!」

霧島絢香は黙るしかなかった。

――その頃、九条雅人は会社にいた。美幸の怒声に眉をひそめる。

「おばあちゃん、まだ用が――」

「用があっても戻るの! 戻らないなら、二度とここへ来なくていい!」

美幸は怒りのまま、翡翠の親指リングまで外して見せた。

それは九条雅人が初めて稼いだ金で買ったもので、美幸が大事にしている品だ。

九条雅人は額を押さえ、渋々言う。

「……おばあちゃん。そこまで怒る理由を先に教えてくれ」

「絢香のどこが悪いのよ! どうして離婚なんて言い出すの!」

「外で何してるか、私が知らないとでも?」

「絢香と離婚するなら、孫だなんて認めない!」

「覚悟しなさい!」

そう言い捨てて、通話はぶつりと切れた。

九条雅人は切れた画面を見つめ、眉間を沈める。

なぜ祖母が知っている?

オフィスは不気味なほど静かだった。ペンを握っているのに、書類が一枚も進まない。

ふと、九条雅人の口元に冷笑が浮かぶ。

「……なるほど。署名しておいて、すぐ祖母に泣きついたか」

大した根性だと思ったのに。結局、その程度。

コートを掴み、地下駐車場へ向かった。

――本邸。

美幸は通話を切っても怒りが収まらず、親指リングを遠ざける。

「はいはい、どけどけ。見てるだけで息が詰まる」

霧島絢香は慌ててお茶を淹れた。

「おばあさま、怒らないで。お身体に障るよ」

「私たち……お互いに納得して、離婚するだけだから」

美幸は彼女の手を握り、心底いたわるように言う。

「あなたはいい子。いいことしか言わない。でもね、あなたが雅人を本気で想ってるのは、私には分かる」

「心配しないで。おばあちゃんがいる。誰にもいじめさせない」

そして鼻を鳴らし、さらに言い放った。

「あのクソガキが離婚するなら、九条グループの株を取り上げて、コレクションも捨ててやる。外で好き勝手できなくしてやるわ!」

美幸はにこりと笑った。手入れの行き届いた顔に、怒りと愛情が同居している。

霧島絢香は苦笑しながらも、不安だった。

このままでは離婚が進まない。二人の亀裂は、祖母の叱責程度で埋まるものではない。

ほどなくして、本邸の外からエンジン音が轟いた。

音だけで分かる。九条雅人が来た。

どれだけ夜を待っても――何も変わらなかったことを、彼女は知っている。

やがて九条雅人が入ってくる。

隙のない黒のスーツ。背は高く、姿勢は美しい。

鋭い輪郭の顔はいつも通りで、視線はリビングを滑ったが、霧島絢香のところで一度も止まらない。まるで見えていないかのように。

彼は美幸の前に立ち、淡々と言った。

「おばあちゃん。話とは何だ」

「よくもそんな口が利けるわね」美幸は鼻を鳴らし、霧島絢香の手を引いて自分の隣へ寄せた。

「聞くわ。絢香と離婚するつもり?」

九条雅人は黒い瞳を細め、黙った。肯定と同じだ。

「返事!」

美幸は苛立ち、コースターを投げつけた。

九条雅人は受け止め、仕方なく言う。

「おばあちゃん。これは俺と彼女の問題だ。口を出さないでくれ」

美幸は即座に不機嫌になる。霧島絢香の手を離さない。

「私は何を言われても引かない。絢香は私が決めた孫嫁!」

「九条家に入った以上、九条家の人間よ。離婚したいなら――私が死んでからにしなさい!」

九条雅人の眉間がさらに深くなる。

祖母は本気で言う人だ。電子機器だって、下手をすれば彼以上に使いこなす。

離婚を強行すれば、確実に面倒が起きる。

彼は不満げに霧島絢香を見る。

――やはり、祖母を盾にしたか。

霧島絢香はその視線に眉を寄せた。何を勘違いしているのか。

彼女は静かに顔を上げ、目が合いかけて、すぐ逸らす。

「おばあさま、彼を追い詰めないで」

「私たち、二人とも離婚に同意してる」

声は平坦で、未練など一滴も感じさせない。

九条雅人はそれを聞き、胸の奥が一瞬だけ痛んだ。――だが、すぐに消える。

次の瞬間、美幸が霧島絢香の頬をつまんだ。

「あなたは優しすぎるの。こういうクソガキには強く出なきゃ!」

「安心しなさい。おばあちゃんが守る。今日からあなた、あの家に戻って住みなさい!」

「……え?」

霧島絢香の身体が、ぴたりと固まった。

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