第7章 妊娠してるのか?
九条家の別荘を出たあと、霧島絢香はまっすぐ自分の部屋へ戻った。
デザイン画は、まだ半分。
霧島家に戻されなければ、とっくに会社のメールへ送れていたはずなのに。
1時間後。
絢香はタブレットを手に下絵を修正していたが、不意に扉を叩く音がした。
「……若奥様。桜井さんが体調を崩されたそうで、様子を見に行っていただけないかと」
使用人は困りきった顔をしている。
それを聞いた瞬間、絢香のペン先がぴたりと止まった。目の奥を、かすかな嘲りがよぎる。
桜井陽菜――ずいぶん図に乗るようになった。
「暇じゃないって伝えて」
絢香は取り合いもしない。
具合が悪いなら病院へ行けばいい。自分は医者ではない。
今はただ静かな部屋で、デザイン画を仕上げたいだけだった。
おばあさまの件さえやり過ごせば、そのままP市へ飛べる。
桜井陽菜がどうなろうと、知ったことではない。
ふと、絢香は下腹部に手を添えた。
九条雅人は知っているのだろうか。
自分もまた、この身に子どもを宿していることを。
使用人は絢香に同情しながらも、社長の愛人を敵に回す勇気はない。結局、言われた通りの言葉をそのまま伝えに戻った。
桜井陽菜はソファに気だるげにもたれ、雑誌を手にしていたが、その報告を聞いた途端、目をすっと細めた。
――暇じゃない?
九条美幸に気に入られているのをいいことに、九条家へ居座ったまま。
いったい、いつまで引き延ばすつもりなのか。
だめ。
九条雅人は自分のものだ。九条夫人の座も、必ず。
丁寧に描いた目元の奥を陰のある光がよぎる。けれど次の瞬間には、陽菜はすぐさま弱々しい顔に戻り、下腹部を押さえて眉をひそめた。
「私、絢香さんを怒らせちゃったのかしら……。そうよね、私なんかがご迷惑をかけるべきじゃなかったわ」
そう言った直後、彼女は急に顔色を変え、細い眉をきつく寄せた。
「わ、私、お腹が痛くて……。田中さん、早く絢香さんを呼んで。怖いの……!」
ぱたん、と手から雑誌が床に落ちる。
田中は青ざめた。
ぐずぐずしている余裕などない。慌てて二階へ駆け上がる。
ほかの使用人たちも、顔をなくして駆け寄った。
「桜井さん、大丈夫ですか!?」
「すぐ先生にご連絡します!」
「だ、だめ……雅人には、迷惑をかけないで……」
陽菜は苦しげに使用人の袖をつかみ、いかにも健気そうに首を振る。
「お仕事でお忙しいのに……私、少し我慢すれば……」
そんなふうに言われれば、なおさら放ってはおけない。
使用人はますます焦り、結局その場で携帯を取り出して九条雅人に電話をかけた。
そのころ。
絢香はモニターを見つめたまま、指先をタッチパッドの上で止めていた。
外では急き立てるように扉が叩かれ、今にも板が外れそうな勢いだ。
「奥様、どうか下へ来てください! 桜井さんに何かあったら、私どもでは責任が取れません!」
――ほら。
九条家の使用人ですら、誰が大事か分かっている。
桜井陽菜のほうが、自分より上なのだと。
絢香は細く眉を寄せた。
このままでは、図面も進まない。
ひとつ深呼吸すると、水の入ったコップを手に立ち上がる。
「だったら救急車呼んで」
「時間を無駄にしたら、もっと面倒なことになるわよ」
そう言い捨てて、絢香は階下へ下りた。
長く座りっぱなしだったせいか、腰と下腹部にかすかな違和感がある。
だが下へ着くなり、陽菜が申し訳なさそうな顔でこちらを見た。
「絢香さん……本当に具合が悪くて。お水を1杯、いただけないかしら」
「みんな手が離せないみたいで……私、立ち上がるのがつらくて」
絢香は表情ひとつ変えず、聞こえなかったように通り過ぎようとする。
その無視に、陽菜の唇の端がわずかに引きつった。
霧島絢香――本気で自分が九条家の奥様だと思っているの?
陽菜は少し声を張った。けれど、あくまでか弱さは崩さない。
「絢香さん、怒らないで。私、好きでここにいるわけじゃないの」
「もし前に何か失礼があったなら謝るわ。だから……今、本当に喉が渇いていて……」
そう言いながら、ふらつく足取りで立ち上がる。
絢香の眼差しはさらに冷えた。
そのまま脇を抜けようとする。
陽菜はすがるような声を出した。
「絢香さん、ごめんなさい……」
「きゃっ!」
次の瞬間、陽菜の身体が絢香の腕へぶつかった。
ばしゃっ、とコップの水が跳ね、多くが陽菜の手の甲へかかる。
「大変! 桜井さん、大丈夫ですか!?」
「早く薬を! やけどのお薬を持ってきて!」
思いがけない騒ぎに、使用人たちは一気に色を失った。
別荘じゅうが、たちまち蜂の巣をつついたような大騒ぎになる。
絢香は一瞬、言葉を失った。
すぐに目を細める。
自分は、たしかに――
「陽菜!」
そのとき、低く鋭い声が空気を裂いた。
絢香の身体がびくりと強張る。
振り向いた先にいたのは、血相を変えて飛び込んできた九条雅人だった。
陽菜はすでに使用人に支えられ、ソファに身を縮めている。顔は真っ白で、額には冷たい汗がびっしり浮かんでいた。
雅人は早足で近づき、彼女を半ば抱き寄せる。
それから氷のような目を上げ、絢香を鋭く睨みつけた。
「絢香、何度言えば分かる。陽菜には近づくなと」
「妊娠している相手にまで動揺を与えて――これで満足か」
事情も聞かずに浴びせられたその言葉に、絢香の胸が鈍く痛んだ。
やはり、この人の中で自分はその程度なのだ。
胸の奥の痛みを押し殺そうと、絢香は深く息を吸う。
こみ上げるものを必死に堪えたせいで、目尻が熱を帯びて赤くなる。
コップを握る手にも、知らぬうちに力がこもっていた。
「雅人、信じるかどうかはあなたの勝手よ」
「……私には関係ない」
陽菜は伏せた瞳の奥でほくそ笑み、すぐにまた雅人の胸元へ寄りかかって涙声をこぼす。
「雅人、絢香さんを責めないで……。わ、私がちゃんと受け取れなかっただけだから……」
しゃくり上げながら、わざとらしく手の甲を見せる。
白い肌は、たしかに赤くなっていた。
雅人の顔つきはさらに険しく沈み、瞳の奥で怒りが燃え上がった。
彼は立ち上がると、乱暴に絢香の手首をつかむ。
「お前、陽菜に何をした!」
「妊娠していると知っていて、わざと熱い湯をかけたのか。何を考えてる!」
力は少しも容赦がない。
「九条雅人、勝手に決めつけないで!」
絢香は痛みに唇の色を失いながらも、腕を振り払った。
胸の底に溜め込み続けてきた悔しさと怒りが、一気に噴き出す。
「よく見て。私はいつもぬるい水しか飲まない。湯気なんて立ってなかった!」
「それに、離婚するまでは私がこの家の奥様でしょう。そんなに大事なら、外で囲っておけばよかったじゃない!」
雅人のあまりの高圧的な態度に、絢香もとうとう堪えきれなかった。
結婚して3年。
こんなふうに真正面から大声で言い返したのは、これが初めてだ。
「お前……」
雅人の目に一瞬、はっきりとした驚きが走る。
彼の記憶にある絢香は、いつだって従順で、逆らわず、こんな鋭い言葉を返す女ではなかった。
だが次の瞬間、彼は我に返ったように冷笑した。
「奥様? 誰が認める」
「今すぐ陽菜に謝れ。さもないと――お前には背負えない結果になる」
「悪くもないのに、どうして謝るの?」
絢香の視界は涙で滲んでいた。
それでも一歩、また一歩と雅人に詰め寄る。
「3年よ……雅人、あなたに心はあるの?」
「私は何もかも差し出したのに、桜井陽菜が戻ってきた瞬間、優しさも我慢も全部あの人にあげた」
「私だって人間なの。痛いのよ!」
泣き声を噛み殺した、震える声。
それでも、精いっぱい押し殺していた。
丸い瞳は涙でいっぱいだった。
その瞬間、胃の奥がぐらりと揺れる。
強い吐き気と同時に、下腹部がきゅっと痛んだ。
――まずい。
絢香の顔から、さっと血の気が引く。
どうして今。
こんなときに、つわりが――。
不安が一気に押し寄せた。
絢香はもう何も構わず、踵を返して洗面所へ駆け込む。
「……っ、うっ」
便器に手をつき、激しくえずく。
胃の中をねじ切られるように苦しい。
妊娠してから、ここまで強い吐き気は初めてだった。
きっと、この子も感じ取ってしまったのだ。
自分の悲しさを。不安を。
雅人はその背中を見て、足を止めたまま動けなかった。
今の反応は、演技には見えない。
――どうして急に吐いた?
まさか。
ひとつの考えが脳裏をかすめ、彼の表情がわずかに揺らぐ。
次の瞬間には陽菜のことすら頭から消え、雅人はそのまま洗面所まで追いかけていた。
苦しそうに肩を震わせる絢香を見下ろし、低く、ひと言ひと言を噛みしめるように問う。
「絢香……お前、妊娠してるのか」
その言葉に――
絢香の全身が、どくんと大きく震えた。
