第2章 離婚
看護師は一瞬だけ動きを止め、目の奥にかすかな同情を浮かべた。けれど深くは聞かない。小声でいくつか注意事項を告げると、すぐに病室を出ていった。
諏訪詩織はベッドに身を沈め、スマホを取り出す。未読が二十三件、一気に跳ね上がった。
全部、長谷川遥斗から。
「詩織、帰国したのか?」
「どうして返事しない? 忙しい?」
「見たら返して。心配だ」
——心配?
諏訪詩織は画面を見つめたまま、口元を歪めて笑った。
彼が、私を?
ほかの女の身体で欲望を吐き出したあとに、それでも「心配」なんてよく言える。
そのとき、スマホがぶるりと震えた。着信表示は長谷川遥斗。
名前を見つめるだけで時間が過ぎる。呼び出し音が途切れそうになって、ようやく通話を取った。
「……もしもし」
「詩織!」
向こうの声は切羽詰まっていた。「どこにいる? なんで電話に出ないんだ」
諏訪詩織は目を閉じ、淡々と返す。
「充電切れてただけ。いま繋げた」
「そうか……何かあったのかと思った」
少しだけ落ち着いた声になる。「どこだ? 迎えに行く」
「いい」
諏訪詩織は短く言った。「外を少し歩いてから帰る」
「ひとりか?」
長谷川遥斗は引かない。「場所を言え。お前は俺の妻だ。顔が見えないと落ち着かない」
——妻。
その言葉が、いまの詩織には滑稽だった。
あの喘ぎ声を、あの荒い息づかいを、この耳で聞かなければ。きっと彼の「深い愛情」みたいなものに、また騙されていた。
でも彼は、答えるまで終わらない。
諏訪詩織は仕方なく病院の住所を告げた。
——三十分後。
病室のドアが開き、長谷川遥斗が現れた。
昨日と同じ濃灰のスーツ。髪は少し乱れ、目の下に濃い隈。寝ていないのが一目でわかる。
詩織の姿を見つけた瞬間、彼は早足で近づき、問答無用で抱きしめた。息が詰まるほど強く。
諏訪詩織の身体が、反射的に硬直する。
ふわり、と香水の匂いがした。自分のものじゃない。別の女の匂い。
それが棘みたいに胸を刺す。
「次は絶対にするな」
頭上から、掠れた声。「スマホは繋がるようにしとけ。いいな?」
諏訪詩織は動けない。返事も出ない。
長谷川遥斗はようやく腕を緩め、両手で彼女の頬を包むようにして覗き込んだ。
「顔色が悪い。どこか具合でも?」
諏訪詩織はただ見返す。目の奥は冷え切っていた。
「平気」
声だけ、薄く整える。「最近ちょっと疲れてるだけ」
長谷川遥斗は眉を寄せる。
「だから仕事はやめろって言っただろ。長谷川家は、お前ひとり養えないほど落ちぶれてない」
詩織は目を伏せた。
結婚した頃、彼は何度も言った。仕事なんて辞めていい、と。
彼が喜ぶから、デザインの依頼もほとんど断った。まるで専業主婦みたいに。
それで守れると思ったのだ。結婚も、幸福も。
守れたのは——夫が裏で自由に裏切る場所だけ。
「帰ろう」
長谷川遥斗は詩織の髪にキスを落とした。「全部、予定をどかした。しばらくお前に付き合う」
その手が指先に触れようとして——詩織は避けた。
帰り道、会話はほとんどない。
長谷川遥斗はバックミラー越しに何度も詩織の顔色を窺い、今日の彼女がどこかおかしいと感じている様子だった。
別荘へ戻ると、部屋は綺麗に整えられていた。荷物を置き終え、長谷川遥斗が柔らかく言う。
「先に風呂入れよ。ホットチョコレート淹れてやる」
また、それ。
思い出すだけで胃がむかつく。
「いらない。休む」
詩織は彼を見もしないまま階段を上がった。
寝室の扉を開ける。
昼間、林田美月がそこで眠っていた——そう思っただけで背中が粟立つ。
詩織はクローゼットから新しいシーツを引っ張り出し、黙って替え始めた。
長谷川遥斗が怪訝そうに言う。
「そんなの、使用人にやらせればいいだろ」
替えても、気持ち悪さは消えない。
詩織は枕を抱え、廊下へ出た。
「今日は客室で寝る」
その腕を、長谷川遥斗が掴む。近い。圧が強い。
「さっきからおかしい。どうした、今日は」
詩織は顔を背け、小さく吐き捨てた。
「……自分が一番わかってるでしょ」
長谷川遥斗が言葉を失った、その瞬間。スマホが鳴った。
画面に表示された名は——林田美月。
詩織は横目でそれを見た。
長谷川遥斗は一度だけ詩織を見て、スマホを持ったままバルコニーへ出る。背を向け、声を落として話し始めた。
何を言っているかは聞こえない。聞きたくもない。
詩織は枕を抱えたまま部屋を出た。
客室でベッドを整えていると、ドアがノックされる。
「詩織、会社の用事が入った。ちょっと行ってくる」
相手が誰か、わかっている。
諏訪詩織は返事をせず、そのまま横になった。
やがて足音が遠ざかり、別荘が静まり返る。
沈黙の中で、詩織はスマホを手に取った。
ひとつの番号へかける。
「法律事務所でしょうか。離婚したいんです」
——翌朝。
諏訪詩織は法律事務所を訪れた。窓辺に立つ男の背中が、なぜか見覚えがある。
「諏訪さん」
男が振り返り、整った笑みを浮かべる。「久しぶり」
諏訪詩織は息を呑んだ。
N市で名の知れた離婚弁護士——それが、大学時代の先輩、牧野徹だなんて。
彼は二つ上で、かつて詩織に告白した。詩織は断った。
理由は単純だった。あの頃の心は、長谷川遥斗でいっぱいだったから。
卒業後はP市へ行ったと聞いていたのに、戻ってきたら弁護士になっていたらしい。
詩織はその場に立ち尽くし、言葉が出ない。
牧野徹は水を注ぎ、彼女の前へ置く。そして向かいに腰を下ろした。
「五年か」
視線が揺れる。「ずいぶん変わったな」
「そう?」
諏訪詩織はぎこちなく笑った。
「うん。昔は笑うと目が光ってた。今は……」
言葉が途中で止まる。
詩織は指先をきゅっと握りしめた。
かつては、上流の場でも眩しいと言われた。
それなのに今は、長谷川遥斗のために自分を削り、削り、気づけば何も残っていない。
「俺に頼みたいのは、離婚か?」
牧野徹が探るように問う。
詩織はうなずき、事情を説明した。
話を聞き終えた牧野徹は眉を寄せる。
「現状だと、長谷川グループの株を15%求めるのは厳しい。ご主人側に明確な過失がない」
諏訪詩織はそっと下腹に触れた。
本当は争いたくない。
でも、この子の生活だけは守らなければならない。
「不貞の証拠があれば?」
諏訪詩織が顔を上げる。
牧野徹は一瞬目を見開き、すぐに笑った。
「それなら15%どころじゃない。婚姻中の財産の半分だって、俺が取ってみせる」
