第5章 この男は誰だ
行き先がバレたと悟ると、諏訪詩織はもう隠れるのをやめた。
一歩前に出て、病床の女を見据える。瞳は氷のように冷たい。
「自分でもわかってるんだ。あなた、陽の当たる場所に立てないって」
「尾行してた」なんて口にする時点で、どれほど恥知らずで、どれほど人目を避ける立場か――本人がいちばん理解しているということだ。
林田美月の表情がわずかに固まる。短い気まずさののち、腹の子を思い出したのか、そこに妙な自信が宿った。
「見えないところで生きてようが、何よ」
林田美月は顎を上げ、昨日のへりくだった様子など跡形もない。言葉に毒が滲む。
「あなたみたいに子どもも産めないより、よっぽどマシ」
そして、勝ち誇ったように言い放った。
「私が産めば、この子は長谷川家の跡取り。長谷川家の人だって、必ず認めるわ」
立場なんて、後からいくらでも手に入る。
子どもさえ産めば、立場は自分のもの。長谷川家が血を外に流すはずがない――そう踏んでいる。
「どこまで厚かましいんだよ」
牧野徹が怒りを噛み殺せず吐き捨てる。
「浮気相手のくせに、よくそこまで堂々とできるな!」
その声で、林田美月はようやく詩織が一人ではないことに気づいた。
スーツ姿の男に視線を走らせ、瞳がふっと揺れる。次の瞬間、口元だけで笑った。
「へえ……諏訪詩織。私を罵る資格、あなたにある?」
含みのある声。
「自分だって男といちゃついてるじゃない。遥斗は知ってるの?」
「くだらないことを言うな」
牧野徹は眉を寄せる。
「俺と詩織は何もない。友達だ」
林田美月は鼻で笑い、手で口元を押さえて冷たく言った。
「清いだとか清くないだとか、私にはどうでもいいの」
視線だけで詩織を刺す。
「次を見つけるなんて、やるじゃない。さっさと離婚すれば?」
さらに追い打ちをかけるように立ち上がり、腹を撫でた。
挑発の色が濃くなる。
「見たでしょ。遥斗はこの子を産ませるつもりよ」
にやりと笑う。
「あなたのこと、愛してない。少なくとも――そこまでじゃない」
牧野徹が思わず詩織の顔色を見る。
体調が悪いのに、わざと刺してくる。
けれど詩織は崩れなかった。
怒りはある。だが、こんな女に笑われる筋合いはない。
詩織は眉を軽く上げ、林田美月の腹を一瞥する。口調はあくまで淡々。だからこそ残酷だった。
「いいじゃない」
薄く笑う。
「私の夫の子を、誰かが産んでくれるなんて。私は苦しまなくて済むし、子どもも手に入る。むしろお礼を言うべき?」
林田美月の顔が引きつる。
「……頭おかしいの? この子は私のよ!」
「あなたの?」
詩織は冷笑した。
「あなた、長谷川遥斗の何なの。産む資格があるとでも思ってる?」
「……っ」
詩織は遮るように言葉を重ねる。静かで、はっきりしていた。
「長谷川家が、自分たちの血を外に流すと思う?」
「私が『寛大』に受け入れると言えば、長谷川家はこの子に、私を母親だって認めさせる」
「信じない?」
林田美月の瞳孔が縮む。指先が肉に食い込んだ。
その通りだ。離婚さえしなければ。詩織がその気になれば――子どもは奪われる。
「……そんなの、嫌!」
唇を噛み、弱々しく叫ぶ。
「子どもは私の!」
詩織はその動揺を見逃さず、肩をすくめた。
「あなたが遥斗とどういう関係でもいい」
声は凪いでいる。
「長谷川夫人の席が、私のものである限りはね」
その瞬間、背後に大きな影が落ちた。
林田美月は一瞬で可哀想な妊婦の顔へ戻る。目尻を赤くし、震える声で呼んだ。
「遥斗……」
詩織の背筋が強張る。振り返ると、そこに立っていたのは長谷川遥斗。
彼女は唇を結び、あえて何も言わなかった。
こんな場面で先に口を開いたほうが、負ける。
説明するべきなのは――彼のほうだ。
牧野徹は林田美月の露骨な芝居を見て、吐き気をこらえるように眉をひそめた。
そして咄嗟に詩織の前へ立ち、長谷川遥斗を牽制する。
詩織の「気にしない」という言葉だけでも遥斗の胸はざらついていた。
そこへ、見知らぬ男が割り込む。遥斗の目が一気に冷える。
男越しに詩織を見据え、低い声で問い詰めた。
「どうしてここにいる」
「俺を尾行したのか?」
――違うだろ。
まずは林田美月の腹の子を、説明しろ。
詩織は胸の奥で嗤い、冷たく言い返した。
「遥斗。説明すべきじゃない?」
「林田美月のこと。あなた、私を騙した」
林田美月が待ってましたとばかりに声を甘くする。
「遥斗、彼女が尾行してきたの」
「あなたが出た瞬間に現れて……それに、子どもを諦めろって――」
「黙れ」
遥斗が鋭く遮る。
林田美月が言葉を呑み、肩をすくめた。
遥斗は視線を詩織へ戻す。
「今の話、本当か?」
「言ってない」
詩織は淡々と否定する。
「子どもを産むななんて、一度も」
遥斗は本当のところ詩織を疑っていない。さっきのやり取りも多少は聞こえていたはずだ。
彼女の「寛大さ」に安心して然るべきなのに――胸の奥に、理由のわからない苛立ちが膨らむ。
詩織は目を逸らさず言った。
「それより、あなたが説明して」
「誤解だと言うなら、今ここで」
遥斗の瞳が沈む。
「……誤解だ。あとで全部話す」
「今、聞きたい」
詩織はわざと目を赤くし、震える声を作った。
それを見て遥斗の表情が緩み、彼は一歩詰めて手を伸ばす。
「林田美月は精神的に不安定なんだ」
「ひとりで何か起こされたら困るから、付き添っただけだ。信じろ」
あまりにお粗末な言い訳。
詩織は一歩退き、その手を避けた。
その拒絶が、遥斗の神経を逆撫でした。
「詩織……」
遥斗が再び手を伸ばした瞬間、牧野徹がその前に出る。
「嫌がってるのがわからないのか」
遥斗の目がさらに冷たくなる。声には露骨な不機嫌が混ざった。
「お前、誰だ。関係ないだろ」
牧野徹は退かない。
「詩織のことは、俺に関係ある」
遥斗のこめかみがぴくりと動く。
黒い顔で詩織を見て、低い声で吐き捨てた。
「詩織……こいつは誰だ?」
