第7章 ボロが出る?
諏訪詩織は、かつて想像したことがある。――もし、彼と二人の子どもができたら。
その頃の彼女は、本気で信じていたのだ。きっと、幸せになれる。だって長谷川遥斗は、あれほどまでに自分を愛してくれていたのだから。
けれど今。子どもが本当にやってきたというのに、彼女の心は離婚へと傾いていた。
タイミングが最悪だ。堕ろしたくはない。だが、この子を長谷川遥斗のそばには置けない。
だから妊娠の事実は隠す。――彼に、交渉の切り札を渡さないために。
「まだ若いんだし、子どものことは……もう少し考えてからにしよう」
諏訪詩織は長谷川遥斗の腕からするりと抜けると、ベッドのほうへ歩いた。わざと眠そうに欠伸をひとつ。
「疲れたの。休みたい」
だが長谷川遥斗は引かなかった。追いつき、彼女の手首を取って、そのままベッドへ引き倒す。
「でも俺は欲しい。俺たちの子が」
そう言って、唇が落ちてくる。
近づくほどに、諏訪詩織の胃の奥がぐらりと揺れた。吐き気が込み上げ、堪えきれない。
「……っ」
諏訪詩織は勢いよく長谷川遥斗を押し退け、洗面所へ駆け込んだ。
便器に縋りつき、ぐっ、げほっ、と喉を震わせて吐く。胃が空っぽになるまで吐き尽くして、ようやく呼吸が戻ってきた。
浴室の入口に立つ長谷川遥斗の顔は、目に見えて険しい。
――俺が、嫌なのか。
そんな怒りが滲んでいる。それでも彼は背を向け、ぬるま湯をコップに注いで戻ってきた。
諏訪詩織がうがいをしている間も、重い視線が刺さる。疑われるわけにはいかない。彼女はすぐに言い訳を用意した。
「ここ数日、胃の調子が悪くて……」
長谷川遥斗は何も言わず、彼女の腕を支えて寝室へ戻す。声だけが、やけに落ち着いていた。
「だから今日、病院に行ったのか」
「うん。検査のため」
諏訪詩織は頷き、平然と続ける。
「病院であなたたちに会ったのも、偶然だよ」
「……医者は何て言った」
諏訪詩織は彼の目を真正面から見返した。そこに、揺らぎも怯えも見せない。
「ストレスだって。少し休養しろって言われた」
長谷川遥斗はしばらく彼女の顔を観察したが、違和感は拾えなかったらしい。表情がやわらぎ、軽く肩を叩いた。
「秘書に手配させる。明日、もう一度ちゃんと診てもらおう。全身検査だ。俺も安心したい」
全身検査――それは、妊娠が露見する。
諏訪詩織は心臓の奥が冷えるのを押し殺し、逆に彼の手をそっと押さえた。
「大げさだよ。もう診てもらったし、薬も出てる。大丈夫。これ以上は面倒かけたくない」
「面倒じゃない」
長谷川遥斗は譲らない。「不安なんだ。徹底的に調べたほうがいい」
「本当にいらない」
諏訪詩織は笑みを作る。「自分の体は自分が一番わかってる。それに、会社も忙しいでしょ。こんなことで手を煩わせなくていい。ちゃんと自分で管理するから」
幾度も重ねて拒むと、長谷川遥斗はようやく折れた。
「……わかった。じゃあ休め」
彼は布団を丁寧にかけ直し、低い声で言い含める。
「またどこかおかしかったら、すぐ言え。俺が連れて行く」
「うん」
諏訪詩織は目を伏せた。感謝など、欠片も湧かない。
長谷川遥斗の裏切りを目にした瞬間、彼女の感情はもう残らず消えてしまった。
一度でも欺かれたら、もう無条件に信じられない。
長谷川遥斗がベッドに入ると、背後から抱き込み、彼女の小さな体を腕の中に閉じ込める。耳元に熱い息がかかる。
「寝ろ」
諏訪詩織は目を閉じ、やがて均一な呼吸を作った。
腕の中の女を見下ろしながら、長谷川遥斗は暗い目を細める。
……気のせいか。最近、詩織の態度が冷たい。
いつからだ?
あれだ。林田美月が押しかけて騒いだ、あの一件の後から。
さっきの、あの拒む目。胸の奥が妙に詰まる。
――まあいい。詩織が離婚を口にしない限り、彼女は俺の妻だ。
もうすぐ誕生日。盛大なパーティーを開いて、贈り物も用意する。機嫌を直させればいい。
——翌朝。諏訪詩織が目を覚ますと、長谷川遥斗はもう出ていた。部屋はがらんとしている。
ふう、と息を吐き、天井を見上げる。
昨夜の流れなら眠れないと思った。けれど疲れが勝ったのか、いつの間にか眠っていた。
……でも、こんな日々はもう無理だ。早く離婚したい。
そう考えていると、スマホが鳴った。牧野徹。
諏訪詩織はすぐに出る。受話口から、抑えきれない心配が滲んだ声が届いた。
「大丈夫か? どこか具合、悪くないか」
昨日は長谷川遥斗が現れて、予定していた診察を受けられなかった。
諏訪詩織は上体を起こし、壁にもたれて答える。
「大丈夫。帰ってからお腹の痛みも落ち着いたし……たぶん考えすぎ。これから気をつける」
「……昨日、長谷川遥斗はお前に何かしたか」
「何も」
彼も自分に非があるとわかっているのだろう。昨夜は深追いしてこなかった。朝も早く出て行った。むしろ助かった。
牧野徹は息をついた。
「わかった。離婚の手続き、できるだけ早く進める。安心しろ」
その言葉に、諏訪詩織は静かに頷いた。
——一方その頃。長谷川遥斗は朝早く病院にいた。
診察室で林田美月の検診が行われている。彼の姿を見た瞬間、林田美月の目が赤くなる。
「もう来てくれないのかと思った……私のこと、放っておくのかって」
長谷川遥斗はゆっくり近づき、指先で彼女の頬に触れた。
「そんなわけないだろ。泣くな。子どもに響く」
林田美月はぱっと笑い、医師のほうを振り返って甘えるように言う。
「先生もさっき、赤ちゃん元気だって言ってたもんね?」
医師は頷き、淡々と注意事項を告げる。
「はい。胎児は順調です。ただ、まだ妊娠初期ですので――」
いくつか生活上の注意を述べると、医師は退室した。
林田美月は長谷川遥斗の手を引いて座らせ、不安げに覗き込む。
「昨日、家は大丈夫だった? 詩織さん、疑ってない?」
長谷川遥斗は薄い唇を結び、彼女の腹を軽く撫でる。声音は淡い。
「余計なことは聞くな。お前は安静にして、子を守れ。それだけだ」
林田美月の表情が一瞬固まる。それでもすぐに従順な顔を作り、彼の胸に額を寄せた。
「うん……わかった。何も聞かない。私、いい子にする」
長谷川遥斗はその「従順さ」に満足したように、軽く頭を撫でる。
そして懐から黒いカードを取り出し、彼女に渡した。
「好きに使え。欲しいものは買え」
林田美月は遠慮もしない。寄り添いが足りないなら、金でもいい。
カードを受け取り、薄く笑う。
「お腹の子の分も含めて、ありがたく受け取るね」
