第8章 虫酸が走る
長谷川遥斗は、林田美月が金に目がないことを前から知っていた。だから彼女がブラックカードを迷いなく受け取った瞬間、瞳の奥に嘲りがちらりと走る。
――都合がいい。
彼が欲しいのは、ただ彼女の身体だけ。そこに情なんて乗せるつもりはない。金で黙るなら、それが一番手っ取り早い。
余計な雑念を切り捨て、遥斗は淡々と言った。
「病気が落ち着いたら、俺に付き合ってほしい場所がある」
カードをポケットにしまうと、美月は従順に身を寄せた。ふわりと柔らかな身体が胸元に擦り寄り、指先が悪戯に彼の胸板をなぞる。
「いいよ。遥斗、私に何させたいの?」
わざと煽る手を掴み、遥斗は眉を寄せた。
「おとなしくしろ。腹の子に障る」
美月の身体に執着しているわけじゃない。だが、腹の中の子は別だ。――これは彼にとって、最初の子どもだった。
あまりにも露骨な目的を突きつけられ、美月の胸に苛立ちと諦めが同時に湧く。結局、大事なのは私じゃなくて子ども。そう思うと悔しいのに、どうにもできない。
それでも、不安が勝った。
「私、妊娠したら……あなたの相手できないよ? 他の女、探す?」
遥斗の欲の強さは知っている。気が向けば、あっさり別の女へ行く――そんな想像が喉を締めつけた。
遥斗は口元だけで笑う。
「誰でもいいわけじゃない」
美月の頬がぱっと甘く緩む。
「ってことは……私、遥斗の好みに入ってるってことだよね?」
男は肯定も否定もせず、淡々と言った。
「それに俺には妻がいる。わざわざ外で探す必要もない」
美月は満足げに目を細め、媚びるように問いを重ねる。
「ねえ、まだ言ってない。どこに連れてくの?」
遥斗の指が彼女の頬に触れた。諏訪詩織の顔が脳裏をよぎったのか、眼差しがふっと柔らかくなる。
「もうすぐ詩織の誕生日だ。盛大にパーティーをやる。プレゼント選びを手伝え。女同士のほうがわかるだろ。何を欲しがるか」
――詩織のため。
美月は唇を尖らせた。
「私が選んでも、詩織さんが喜ぶとは限らないじゃない」
遥斗は軽く笑い、指先で頬をつまむ。
「無駄にはしない。お前の分も選べ。礼だ」
その一言で、美月の不機嫌はすっと消えた。
「いいよ。じゃあ、詩織さんに最高のを選んであげる」
——
朝。諏訪詩織は眠りから覚め、ベッドの上でスマホを手に取った。未読の通知がいくつか並んでいる。反射的に開いて――気づいた時には遅かった。
送り主は林田美月。写真が数枚と、短いメッセージ。
「詩織さん、このネックレス綺麗でしょ?」
胃の奥が、ぐっとねじれる。苦い虫を噛み潰したみたいな不快感が込み上げ、詩織は冷笑してスマホを放り投げた。
……見せびらかしたいの?
遥斗に買ってもらったって?
笑わせる。
胸元を押さえ、何度も自分に言い聞かせる。
大丈夫。もう少しだけ我慢すればいい。
証拠を揃えたら、すぐに終わらせる。二人まとめて。離婚してここを出て、二度と戻らない。
——
長谷川遥斗は誕生日の宴に異様なほど力を入れた。帝都ホテルの宴会場を丸ごと貸し切り、盛大に諏訪詩織の誕生日会を開いたのだ。
街中の名士が集まり、彼の顔も立つ。表向きは、完璧な夫婦。
宴会場の上階。
メイク担当が手際よく支度を進めながら、褒め言葉を途切れさせない。だが鏡に映る「美しい器」は、どこまでも空っぽだった。
そこへ遥斗が入ってくる。扉が閉まる音。
彼は詩織の艶やかさに目を細め、係を下がらせると、頬に軽くキスを落とした。
「さすが俺の妻だ。詩織、綺麗すぎる」
詩織は眉をひそめ、さらに口づけようとする顔を押し返す。
「やめて。化粧、崩れる」
遥斗は嫌がられていることにも気づかず、低く笑った。胸元から小箱を取り出す。
「首が寂しい。これをつけよう」
詩織が纏っているのは、深い緑のドレス。艶のある生地が肌を引き立て、陶器みたいな顔立ちをいっそう冷たく美しく見せていた。
差し出されたのは、墨色に近いグリーンの宝石のネックレス。
ドレスに、あまりにも合いすぎる。
――その瞬間、詩織はふっと笑った。
なるほど。
美月のメッセージは、これのこと。
緑。わざとだ。私を、「男に寝取られた惨めな女」に仕立て上げる色。
そして遥斗は、その石に合わせてドレスまで選んだのだろう。
「気に入ったか?」
遥斗は、詩織の笑みを喜びだと勘違いしている。
詩織は適当に頷き、顎で促した。
遥斗が後ろへ回り、留め具を留める。
緑の宝石と緑のドレス。皮肉なくらい、相性がいい。
詩織は鏡越しに彼を見て、わざと柔らかく言った。
「喉、渇いちゃった。お水、もらえる?」
遥斗は疑わず背を向ける。
その隙に詩織は、ネックレスを力任せに引きちぎった。
そして、わざとらしく息を漏らす。
「あ……壊しちゃった。どうしよう」
遥斗は切れた鎖を見て眉を寄せたが、惜しむ様子はない。たかが一本のネックレスだ。
「いい。買い直せばいい」
「でも今からじゃ間に合わないし」
詩織は首を傾げる。「今日はなしでいい。なくても十分でしょ?」
遥斗は鏡の中の彼女を見て頷いた。
「確かに。お前が言うならそれでいい」
——支度を整え、二人は会場へ降りた。
遥斗は舞台で完璧な夫を演じる。
愛情に満ちた声、惜しみない甘い言葉。
「……詩織。君が俺の人生に入った瞬間から、俺は君に落ちる運命だった。この先も君を愛し続ける。生涯、変わらない!」
空虚な誓い。
詩織は薄く笑い、拍手の渦の中で男の芝居を眺めた。
「キス! キス!」
客たちが囃し立てる。
遥斗は笑い、詩織の肩に手を回して唇を近づけ――
その瞬間。
バン、と大きな音を立てて扉が開いた。
黒いベルベットのロングドレスを纏った女が、ゆっくりと歩み入ってくる。
「詩織さん、遥斗。こんな大事な日に、どうして私を呼んでくれなかったの?」
林田美月。
首元には、赤い宝石のネックレス。
詩織の口元が、嘲りに歪む。
もしさっき緑をつけたままだったら――私は道化だった。
遥斗の顔色が一気に変わった。
鋭い視線で美月を射抜き、低く言い放つ。
「何しに来た。林田美月、騒ぐな。妊娠してるから我慢してやってるだけだ。俺の底を踏むな」
美月は泣きそうな顔を作り、わざとらしく声を震わせた。
「詩織さんに、お誕生日おめでとうって言いたかっただけ……そのくらいも、だめ?」
詩織は相手にする気もない。視線だけを遥斗に投げる。――説明しろ、と。
遥斗は苛立ちを押さえ込み、沈んだ声で言い訳した。
「俺も知らなかった。勝手に来たんだ。あいつは……病状が重い。気にするな」
そして警備へ手を振る。
「連れて出ろ」
警備が近づいた途端、美月が腹を押さえて叫んだ。
「触らないで! 私、妊娠してるの! 子どもに何かあったら警察呼ぶから!」
警備が動きを止める。
遥斗は舌打ちし、舞台を降りると、美月の腕を掴んだ。何か低い声で叱りつけながら、苛立ちを隠しもせず引きずるように連れ出していく。
残されたのは、舞台の上の詩織だけ。
驚きと憶測の視線が、針みたいに突き刺さった。
