第2章
泣きながらその一言を吐き出した瞬間、周囲の気圧が一気に下がったように感じた。
後藤辰和は氷のような顔で私を突き放し、鼻で笑う。
「薬を盛ってベッドに潜り込んだだけじゃ飽き足らず、今度は妊娠をでっち上げて人を騙すのか。温水寧凪、お前に出来ないことなんてあるのか?」
「騙してなんかない、今日、病院で検査してきたの!」
慌てて弁解する。けれど辰和の関心は、明らかに別のところにあった。
「病院に行ってきた?」
行かなければ、あなたと早乙女星奈があんなに親しげにしているところも、後藤佳奈があなたを「パパ」って呼ぶ声も、聞かずに済んだのに。
自嘲気味に唇をゆがめ、私は小さく頷いた。辰和は何とも言えない目でじっと私を見つめ、冷ややかに告げる。
「俺は毎回きちんと避妊している。妊娠なんてあり得ない。温水寧凪、まだ情けをかけているうちに、本当のことを言え」
「本当に嘘なんかついてないわ。信じられないなら、自分の目で見て」
震える指で、病院でもらった診断書を取り出し、辰和に差し出す。だが彼はちらりと一瞥しただけで、さっさと携帯電話を取り出した。
「長島先生、妊娠検査の器具一式を持って、今すぐ来てください」
辰和の口にした長島は、後藤本家専属の主治医だ。腕は確かで、辰和の祖母の介護を一手に担い、辰和からの信頼も厚い。
数年とはいえ夫婦をやってきたのだから、辰和の意図くらい、瞬時に理解できる。
「辰和、私ってそんなに信用できない? 診断書まで見せてるのに、それでも信じないで、わざわざ長島先生に検査させるわけ?」
「当然だろ」
辰和は冷笑を浮かべた。その瞳に宿る軽蔑と忌避が、ナイフみたいに胸に突き刺さる。
「温水寧凪、自業自得だ。汚い手を使って俺の妻の座にしがみついたあの日から、こういう扱いを受ける覚悟くらいしておくべきだったな」
彼の中では、私はとうの昔に有罪判決を下されている。私がどれだけ必死に説明したところで、耳を貸す気など微塵もないのだ。
世界で一番滑稽なピエロって、きっと今の私みたいな人間なのだろう。
自分で自分が可笑しくなって、でも笑っているうちに目頭が熱くなる。
私は乱暴に涙を拭い、まだ平らな下腹部をそっと撫でて、自分を宥めた。
大丈夫。長島先生が検査してくれれば、私が嘘をついていないって分かってもらえる。その時には辰和だって、きっと私と同じように、この子の誕生を心から喜んでくれるはず。
……そう信じていたのに。
「後藤さん、奥様は妊娠しておりません。こちらが検査報告です、ご確認ください」
「そんなはず……長島先生、何かの間違いじゃないですか?」
全身がびくりと強張り、私は慌ててベッドから降りた。声が震える。
「今日、病院で検査した時は、妊娠三週目だって言われました。信じられないなら、これを見てください!」
私はおろおろしながら診断書を握りしめ、長島先生に差し出す。涙声で訴える私とは対照的に、彼はそれを一瞥しただけで、どこか含みのある口調で言った。
「奥様、この診断書をどうやって手に入れたのか存じませんが……はっきり申し上げます。奥様は妊娠しておりません。ご自分の目でご確認ください」
彼がプリントアウトしたばかりのエコー写真を手渡してくる。
本来なら小さな胎児が映っているはずの場所は、ぽっかりと空虚で、何もなかった。
雷に打たれたように目を見開き、私は信じられないものを見るように画面を凝視する。
「そんな……私、確かに妊娠してるはずなのに。どうして赤ちゃんがいないの。長島先生、あなたが間違っているんじゃないんですか?」
「奥様、私は後藤家に仕えて十年以上になります。先代の最期も看取りました。その私に向かってそういう物言いをなさるのは、私を疑っているのか、それとも後藤家そのものを疑っているのか、どちらでしょう?」
「そんなつもりじゃなくて、ただ私は……」
「いい加減にしろ!」
辰和が怒号のような声で、私の言葉を叩き切った。その剣幕に、あの長島先生でさえびくりと身をすくませる。
険しい顔をしたまま、辰和はゆっくりと私に歩み寄ってきた。その瞳はゾッとするほど冷たい。
「温水寧凪、証拠は全部目の前にある。それでも言い逃れを続けるつもりか。お前には羞恥心というものがないのか」
「本当に騙してなんかないの、辰和。お願い、信じて!」
私は無力に首を振る。恐怖と不安で、心の中がぐちゃぐちゃだった。
この子は、検査の時には確かにそこにいた。
ここ最近の体調の変化だって、全部ちゃんとした理由がある。
なのにどうして、長島先生は「妊娠していない」と断言するの?
もしかして……この子に何か問題があって、うまく映らなかっただけ?
考えれば考えるほど怖くなり、震える手で辰和の袖口を掴む。
「もう一度だけ、長島先生に検査してもらえない? 子供が……子供が心配で……きゃっ!」
言い終える前に、喉元をぎりっと締め上げられた。
声が出ない。空気が吸えない。視界が暗くなっていく。
至近距離で見上げた辰和の目には、殺気がぎっしりと詰まっている。今すぐにでも私の首をへし折りそうなほどに。
「温水寧凪、まだ後藤家にしがみつくつもりなら、下手な小細工はやめろ。次は容赦しない」
「た、つ……和……子供が……」
頭の中は子供のことだけでいっぱいだった。必死に彼の袖を掴み、絞り出すように哀願する。
ほとんど同時に、辰和の携帯が甲高く鳴り響いた。
「辰和、早く来て! 佳奈がまた熱出したの!」
「落ち着け。すぐ行く!」
受話口から漏れる早乙女星奈の泣き声を聞いた途端、辰和の顔色がさっと曇った。
私の首から手を離し、私を乱暴に突き放すと、長島先生を連れて、振り返りもせずに慌ただしく出て行ってしまった。
私はボロ布のように床に転がされ、大きく息を吸い込み、吐くことしかできなかった。
荒い呼吸を整えるのに、どれだけ時間がかかっただろう。ようやく震える手で携帯電話を手に取る。
市内で一番腕がいいと評判の産婦人科医の予約を取るのは簡単じゃない。ましてこんな時間。
でも、諦めるわけにはいかなかった。
私は即席でコードを書き上げ、予約システムの隙間に滑り込むようにアクセスし、残っていた最後の枠をこじ開けるように確保した。
そっと小腹に手を当てる。
長島先生が何と言おうと、ここには確かに小さな命が宿っている。
母親であるこの私が、自分の子供の存在を感じられないはずがない。
***
産婦人科の診察室。
「おめでとうございます、温水さん。妊娠三週目ですね」
医師の穏やかな声は、昨日病院で聞いた診断結果と、寸分違わぬ言葉だった。
私はまだ不安が消えず、喉を鳴らして問いかける。
「その……子供は? 赤ちゃんの状態は大丈夫でしょうか」
「安心してください。胎児は順調に育っていますよ。ただ、お母さんの方が少しお疲れ気味ですから、これからは栄養をしっかり摂って、よく休むようにしてくださいね」
――私の子供は、無事だ。
医師の言葉に、長く長く詰め込まれていた息がふっと抜けていく。
心の中にたちこめていた暗い霧が、ゆっくりと晴れていくのを感じた。
少し迷った末、私はバッグの中から昨夜、長島先生から手渡されたエコー検査の報告書を取り出した。
「すみません、これを見ていただけますか。どうしてこの検査だと、妊娠していないって結果が出ているんでしょうか」
