第3章
秋叶家での日々は、決して平穏なものではなかった。
毎朝、洗面用具には必ず触れられた痕跡があった——歯ブラシには得体の知れない何かが付着し、化粧水には刺激の強い薬品が混入されている。そのせいで私の肌は赤く腫れ上がり、ひどい痒みに襲われた。
「夜月、その顔はどうしたの?」
母が眉をひそめて尋ねた。
「ひどい肌荒れじゃないか」
心配をかけたくない私は、言葉を濁した。
「いえ、これは……」
凛奈はすぐに心配そうな素振りを見せたが、その声色には微かな、しかし確かな愉悦が滲んでいた。
「ここの水や気候が合わないのかもしれないわね。もっと低刺激のスキンケア用品を用意してあげるわ」
渡してくれた『低刺激』な品は、私の肌の状態をさらに悪化させただけだった。だが、それが彼女の仕業だと証明することは、今の私ができない。。
食事の時間変更も、私への知らせのはいつも最後だった。
そのせいで私はよく遅刻する、あるいは食事そのものを逃す羽目になる。
「夜月、なぜいつも遅れてくるんだ」
父に厳しく叱責された。
「家族に対する敬意が足りないぞ」
「申し訳ありません。時間が変更されたことを知らなくて……」
私は必死に弁明しようとした。
「執事に伝言を頼んだはずなのに」
凛奈は悪びれもせず、無垢な顔で言った。
「伝達ミスだったのかしら」
さらに恐ろしいことに、私の食事には頻繁に細工が施されていた。
ある日の昼食、一口食べただけで激しい腹痛に襲われ、トイレに駆け込んで嘔吐を繰り返した。
「夜月ってば、本当にお腹が弱いのね」
食卓に残った凛奈が平然と評した。
「孤児院での栄養状態が悪くて、消化器系が未発達なのかもしれないわ」
両親は顔を見合わせ、その瞳には失望の色が浮かんでいた。
私はただ呆然と彼らを見つめることしかできず、心は刃物で抉られるように痛んだ。
また、失望させてしまったのか。
夜になると、よく奇妙な物音に眠りを妨げられたことがある。
廊下を行き交う足音、窓を叩く音、さらにはクローゼットの中から衣擦れのような音。
恐怖に震えながら明かりをつけて確認しても、そこには何もなかった。
数日もしないうちに、メイドたちの間で私が『精神的に不安定』だという噂が立ち始めた。いつも何かに怯え、大騒ぎしていると。
「可哀想な夜月様。孤児院育ちだから、きっと心に闇を抱えていらっしゃるのよ」
廊下の隅で、彼女たちがひそひそと囁き合う声が耳に入ってきた。
両親に助けを求めようとしたが、いつも凛奈が先手を打っていた。
「お父様、お母様」
彼女は心底心配そうな表情を作った。
「夜月の様子が最近おかしいの。変な音がするとか、いないはずのものが見えるとか……私、彼女が心配で」
父は眉を寄せた。
「夜月、具合が悪いなら医者を呼ぼうか」
「いいえ、私は大丈夫です」
気丈に振る舞ったが、両親の疑わしげな目つきを見て悟った。
彼らは完全に凛奈の言葉を信じ込んでいる。
ある日、私は自室で隠しカメラを発見した。姿見の裏側に巧妙に仕掛けられていたのだ。
恐怖でパニックになりかけた私は、すぐに両親に報告した。
「そんなの馬鹿げてるわ!」
凛奈はすぐ否定した。
「自分の家に監視カメラ仕掛ける人なんていないよね?夜月は被害妄想がひどすぎるわ!」
業者が確認に入った時、カメラは忽然と姿を消していた。
口元に浮かぶ薄笑った凛奈を見て、これも彼女の策略だと理解した。
「夜月」
父の声は冷ややかだった。
「家族を根拠なく疑うのは重大な過ちだ。精神的に参っているなら、カウンセラーを手配するぞ」
その瞬間、私は底知れぬ絶望に突き落とされた。
凛奈は肉体的な苦痛を与えるだけでなく、精神的にも私を虐めようとしている。『私がトラブルメーカーだ』と周りに思われるように仕向けていた。
何よりも残酷なのは、私の最も弱っている時を見計らって、彼女が優しさを装うことだ。
「夜月、顔色が悪いわよ」
人前では、彼女は慈愛に満ちた声で語りかけてくれた。
「少し休んだほうがいいんじゃない?学校には私から連絡しておくから」
だが二人きりになると、その態度は氷のように冷変した。
「鏡を見てみなさいよ、哀れな虫けらそのものね。あの方たちから愛されるなんて夢見ないことよ。あんたにはその資格すらないんだから」
私の日常は悪夢へと変わり果てた。
そして、その悪夢を支配しているのは、間違いなく凛奈だった。
