第4章 断る権利はない
橘奏太は拳を固く握りしめ、その指の関節は白く浮き出ていた。
西園寺家が西園寺希美を疎ましく思っていることは知っていたが、まさかこれほど非道な真似をするとは思わなかったのだ。
「放っておけ」
彼は深呼吸をし、努めて平静を装った声を出した。
「どうしてもだめなら家を出ろ。俺のところに来ればいい」
西園寺希美は彼を振り返り、微笑んだ。その笑顔にはようやく温かみが戻っていた。
「ありがとう。でもまだ行けないわ」
まだ調べなければならないことがある。このまま西園寺家を去るわけにはいかないのだ。
橘奏太は長い溜息をつき、諦めたように言った。
「最近、界隈じゃ神宮寺蓮と西園寺玲奈が来月婚約するって噂で持ちきりだ。神宮寺の御隠居も準備を始めてるらしい。お前……あいつらと真っ向勝負なんてするなよ」
西園寺希美は窓外に落ちる斑らな樹木の影を見つめ、笑った。
「婚約? いいことじゃない」
「いいこと?」
橘奏太は眉を上げた。
「強がるなよ、お前の考えてることくらいお見通しだ。言わせてもらえば、あの神宮寺蓮のどこがいいんだか。自分の女をキープしつつ他の女と結婚? 最低な男だろ。なんであんな奴にこだわるんだ?」
「分かってるわよ」
西園寺希美は力なく笑った。
「とっくに終わらせたいと思ってる。彼らが婚約しようがしまいが、私には関係ないわ」
口ではそう言っても、橘奏太は信じていないようだった。
ここ数年、西園寺希美は何度も神宮寺蓮と別れると言ってきたが、五年経った今も関係は切れていない。
「まあいい、さっさとあんな男捨てちまえ」
橘奏太はそれ以上言わず、ダッシュボードからミントタブレットを取り出して彼女に渡した。
「甘いものでも食べて頭を冷やせ」
西園寺希美はタブレットを口に含んだ。冷たいミントの香りが広がり、胸の内の焦燥感を少しだけ鎮めてくれた。
車が西園寺家の近くで止まると、彼女はドアを開けた。
「行くわね」
「何かあったら電話しろよ」
橘奏太が背後から声をかけた。
西園寺希美は振り返らず、ただ手を振って路地裏の闇へと消えていった。
西園寺家に戻ると、リビングの明かりがまだついていた。
花見美代子がソファでヒマワリの種を食べていたが、彼女が入ってくるのを見ると、殻を放り出して嫌味たっぷりに言った。
「おや、帰ってきたのかい? てっきり橘の坊ちゃんと駆け落ちでもしたのかと思ったよ」
西園寺希美は無視して階段へ向かった。
「お待ちな!」
花見美代子が鋭く叱責した。
「今日から私の許可なく一歩も家を出るんじゃないよ! 馬場さんのことは何とか宥めたんだ。これ以上問題を起こしたら、ただじゃおかないからね!」
西園寺希美は足を止め、冷ややかに振り返った。
「外出禁止? 西園寺家は私を囚人扱いするつもり?」
「当たり前だろう!」
花見美代子は立ち上がり、腰に手を当てた。
「外で恥をさらされるよりマシさ! 大人しくしてな、余計な真似はするんじゃないよ!」
西園寺希美は言い争う気力もなく、踵を返して屋根裏部屋へ上がった。
ベッドに横たわり、塗装の剥げた天井を見つめながら、心の中は乱れていた。
別れる? 本当に別れたい。
五年前に神宮寺蓮に近づいたのは、西園寺家での足場を固めるためだった。自分を虐げる人間に、西園寺希美は言いなりになるだけの女ではないと見せつけたかった。
いつか神宮寺蓮の心を動かせると思っていた。
だが五年経った今、彼は名分さえくれようとしない。
彼はあまりに理性的で冷酷だ。五年の歳月を共にしても、余分な情など一切持ち合わせていない。
彼女と西園寺玲奈は、名義上は異母姉妹だ。
姉が正妻で、妹が愛人? とんだ笑い話だ。
苛立っていると、屋根裏部屋のドアが乱暴に開けられた。
「あら、まだ生きてたの?」
西園寺玲奈はベッドの上の西園寺希美を一瞥し、手にしたベルベットの宝石箱をわざとらしく揺らして音を立てた。
「これ、何だと思う?」
彼女は箱を机の上に放り投げた。蓋が開き、中のサファイアが薄暗い部屋で眩い光を放つ。
「蓮からのプレゼントよ」
西園寺玲奈は腕を組み、勝ち誇った孔雀のように顎を上げた。
「蓮が言うの、サファイアは私の肌に合うって。ねえ、似合うと思う?」
西園寺希美はそのネックレスを見て、神宮寺蓮が西園寺玲奈を連れて選びに行く場面を想像してしまった。
彼女が虐げられている間、神宮寺蓮は西園寺玲奈と仲睦まじく過ごしていたのだ。
心臓を刺されたような痛みと、強烈な皮肉を感じた。
「さあね」
彼女は上半身を起こし、口角を上げた。
「でも、神宮寺蓮は私みたいなタイプの方が好みなんじゃないかしら」
彼女はわざと身を乗り出し、襟元を少し開けて白い肌を晒し、挑発的に言った。
「だって、金で縁取られた花瓶より、男は棘のある薔薇の方を好むこともあるでしょう? ねえ、お姉ちゃん?」
西園寺玲奈の顔が瞬時に凍りつき、手にした宝石箱を取り落としそうになった。
彼女が最も憎んでいるのは、西園寺希美のその態度だ。身分は低いくせに、その顔と体で神宮寺蓮を含むすべての男の視線を奪っていく。
「何てこと言うの!」
西園寺玲奈の声が低くなり、嫉妬と怒りが露わになった。
「蓮が好きなのは品行方正な女性よ。あんたみたいな……」
言いかけて、彼女自身も自分の言葉に説得力がないと感じたようだ。
彼女は掌を固く握りしめ、顎を上げて無理やり余裕を装った。
「あんたが嫉妬してるのは分かってるわ。でも無駄よ、私と蓮はもうすぐ結婚するんだから。あんたの白昼夢がどうなるか見ものね!」
彼女はそう言って宝石箱を閉じ、踵を返して出て行こうとしたが、その足取りは少し慌ただしく、明らかに今の言葉に動揺していた。
「さようなら、お見送りはしないわ」
西園寺希美はベッドのヘッドボードにもたれ、彼女の背中を見ながら笑みを深めた。
西園寺玲奈はドアの前で足を止め、振り返らずに悪意を込めて言い捨てた。
「西園寺希美、身の程を知りなさい。人の物は、奪おうとしても奪えないのよ」
ドアが閉まり、光が遮断された。
屋根裏部屋は再び薄暗くなり、西園寺希美の顔から笑みが消え、冷たさだけが残った。
奪う? いつ私が奪ったというの?
私はもう必死で後退しようとしているのに。
夜十一時、スマートフォンの画面が光った。メッセージだ。差出人は「神宮寺蓮」。
簡潔な一文だった。
『明日の晩、いつもの場所で』
いつもの場所とは、市心のセンター街にある最上階のマンションのことだ。視野が広く、街の夜景が一望できる。
彼女は胸の内の焦燥感を抑え、深呼吸をして返信した。
『私たちはもう終わったはずよ』
二秒もしないうちに、再び携帯が震えた。また神宮寺蓮からだ。短いが、絶対的な支配力を帯びた言葉だった。
『言ったはずだ。お前に決定権はない』
西園寺希美はその文字を見て、ふと笑った。
決定権がない?
神宮寺蓮はいつもそうだ。常に強引で、彼女の意思など踏みにじる。
何様のつもり? 西園寺希美が彼なしでは生きていけないとでも思っているのか?
だが、神宮寺蓮の権力はあまりに強大で、この不平等な関係において、彼女に「ノー」と言う権利はなかった。
西園寺希美は深呼吸をし、画面を閉じて携帯を放り投げた。返信はせず、再びベッドに横たわる。
彼がどうしても付き纏うというなら、付き合ってやろうじゃないか。
ついでに、西園寺玲奈にも痛い目を見せてやる。
