第3章

「お姉ちゃんの準備、私も手伝わせてね」

 澄花の声は、溶けた砂糖のように甘く優しかった。

「お姉ちゃんったら、またあんな……」

 言葉を濁したものの、言わんとしていることは火を見るより明らかだ。

 クラブハウスには、VIP客用の個室メイクルームが用意されていた。ドアが閉まった途端、澄花の顔から優しげな仮面がすっぽりと抜け落ちる。

「言いなさいよ」

 彼女は私の手を乱暴に振り払った。

「一体、何を企んでいるの?」

 私は眉をひそめた。

「企み?」

「とぼけないで! どうして彼を私に譲るの? お姉ちゃんだって本当は……」

「お似合いだからよ」

 私は鏡の前に腰を下ろした。

「他人の期待通りに自分を偽り飾るのが好きな者同士。とてもお似合いじゃない」

 澄花の顔色が何度か変わり、やがてふっと冷笑を漏らした。

「お姉ちゃんったら、随分と寛大なのね。でも、それもそうか。あなたみたいな人が嫁いだところで、名門の顔に泥を塗るだけだもの。花嫁が私だと知れば、彼もさぞかし安堵するでしょうね」

「なら、今すぐ彼にそう伝えてきなさいよ」

 私は彼女を真っ直ぐに見据えた。

「何が怖いの? その場で拒絶されるのが?」

 澄花の表情が、一瞬にして凍りついた。

「黙れ!」

 尻尾を踏まれた猫のように、彼女は金切り声を上げた。

「私はただ、結婚式の日に彼を驚かせたいだけ! あなたこそ、余計な口を叩かないことね。さもないと……」

「ご心配なく」

 私は立ち上がった。

「あんたたちの茶番劇になんか、これっぽっちも興味ないから」

 私はただ、金をもらってここからおさらばしたいだけだ。この先の人生、誰の顔色も窺ってやるつもりはない。

 夜七時、晩餐会が定刻通りに始まった。

 主催者一族の跡取りである柚人は、重要賓客をエスコートして入場する役目を担っていた。本来なら、その隣は私の定位置のはずだった。

 私はエントランスに立って彼を待っていた。ドレスは自分で選んだネイビーブルー。彼が指定したベージュよりも、ずっと人目を引く色合いだ。

 柚人が現れた。彼の視線が私を舐めるように通り過ぎたかと思うと、途端に眉間が険しくなった。次の瞬間、彼はくるりと向きを変え、そばに控えていた澄花に向かって手を差し出したのだ。

 澄花は「驚いた」ように私を見た。いかにも自分が気の毒な立場であるかのような、そんな白々しい態度で。

 彼女は彼の腕にそっと手を添える。二人は並んで会場へと足を踏み入れた。その場にいる全員の視線が、彼らへと注がれる。

 ざわめきが波のように人々の間に広がっていく。

「あちらは婚約者の方では?」

「どう見ても、妹さんの方をお気に入りのようだ」

「無理もない。お姉さんはあまりにも……」

 柚人はそんな囁き声など意に介さなかった。私の横を通り過ぎる際にも、一瞥すらよこさない。

「適当な席に座っていろ」

 薄ら寒いほど平坦な声だった。

「今夜は重客ばかりだ。お前が接客に加わる必要はない」

 それは暗に「お前にはその資格がない」という意味だった。

 私は二人の後ろ姿を見送った。柚人の隙のないスーツ姿に、その腕に寄り添う澄花。完璧だ。品格がある。名門の基準というものを、寸分違わず体現している。

 私は宴会場に入ると、片隅の席に腰を下ろした。ウェイターが差し出したシャンパングラスを受け取り、軽く揺らす。

 好きに演じればいい。それが終われば、私は自由になれるのだから。

 晩餐会も半ばを過ぎた頃、虚飾に満ちた笑い声や愛想笑いにどうにも耐えきれなくなり、私は屋外のテラスへと逃げ出した。

 冬の夜気は骨身に沁みるほど冷たかったが、少なくともここには静寂があった。

「お姉ちゃん、傷ついてこんな所に隠れているの?」

 頬を上気させていた澄花が、後を追ってきた。

「正直なところ、どんなまともな男性だって、私とあなたなら、より分別があって品の良い方を選ぶわ。つまり、この私をね」

 私は口を閉ざしたままだった。

 彼女は声を潜め、一語一語にねっとりとした悪意を滲ませる。

「でも、仕方ないわよね。昔、あなたのお母様は私のお母様に勝てなかった。そして今、あなたも私には勝てない。きっと、『負け犬』っていうのは、あなたたちの血筋に深く刻み込まれたものなのよ」

 瞬間、私の拳は固く握り締められ、青筋が浮かび上がった。

 澄花、死にたいようね。

 だが、私が口を開くよりも早く、彼女は突然悲鳴を上げ、そのまま後ろへと倒れ込んだ。

「きゃあっ!」

 彼女は地面に激しく打ち付けられ、腕を欄干にぶつけた。

 通りかかった数人の客が、すぐさま駆け寄ってくる。

 柚人が宴会場から飛び出してきた。地面に座り込み、腕を押さえる澄花の姿を目にした瞬間、彼の顔色がサッと曇った。

 彼が私を見上げたその視線は、まるで氷の刃だった。

「お前が突き飛ばしたのか? 謝れ」

 私は彼を静かに見下ろした。

「私じゃない。それに、謝るつもりもないわ」

「救いようのない奴だ」

 柚人はボディガードへと向き直った。

「こいつを外へ引きずり出せ。晩餐会が終わるまで、俺の許可なく一歩も中に入れるな」

「あなたの婚約者は私よ」

 私は彼を睨みつけた。

「彼女じゃない」

 柚人がずかずかと歩み寄り、私の手首を乱暴に掴み上げた。あまりの力強さに、思わず目の奥がツンと痛む。

 彼は身を屈めて顔を近づけ、吐き捨てるように言った。

「お前が俺の婚約者だからこそ、お前の目の前で他の女を特別扱いしてやる意義があるんだろうが」

 その瞬間、私はかつてないほど確信した。私の選択は正しかったのだと。

 この男は、最初から私を人間としてなど見ていなかったのだ。

 ボディガードに連行て行かれたのは、屋外庭園の最も奥まった一角だった。暖房器具一つなく、風雨を凌ぐ屋根すらない。あるのは、ただ肌を刺すような寒風のみ。

 薄っぺらなイブニングドレスは背中が大きく開いたデザインで、日中なら美しく映えたかもしれないが、今はただ冷気を骨の髄まで侵入させるだけだ。

 寒い。クソ忌々しいほどに。

 だが、心の奥底に巣食う冷え冷えとした感情に比べれば、こんなもの何でもない。

 私は冷たい壁に寄りかかり、宴会場から漏れる暖かな光を眺めていた。あの中には笑い声があり、シャンパンがあり、「彼ら」に属するすべてのものがある。

 そして、私は外に立っている。

 上等だ。

 おかげで、もっとはっきり見えた。私とあの世界は、元から交わることのない別の生き物なのだと。

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