第3章 胃出血で失神
九条杏奈は九条知夏をちらりと見て、視線を泳がせた。そのまま腹の底から声を張り上げる。
「この人、ママじゃない! うちの家のお手伝いさん!」
――その瞬間。
九条知夏の胸の奥で、なにかが音もなく砕け散った。
ようやく分かった。
どうして杏奈は一度も、自分に登校の送り迎えをさせなかったのか。どうして幼稚園の行事にも、頑なに来させなかったのか。
この学校で「母親」をやっていたのは、自分じゃない。
清水環奈――あの女だった。
清水環奈は腰を上げ、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。柔らかな声で、作り物みたいに微笑んだ。
「知夏、気にしないで。杏奈はまだ小さいもの。冗談が好きなのよ」
九条知夏は、その笑顔を見る気力さえなかった。力なく首を振り、喉を擦るような声で言う。
「……杏奈のこと、任せる」
それだけ告げて、振り返りもしないで正門へ向かった。
以前なら、娘への未練があった。
けれど今回は違う。完全に手を放す――そう決めた。
清水環奈は、九条知夏の言葉の本当の意味に気づかないまま、口元に得意げな弧を浮かべる。すぐにまた優しい顔を作って、九条杏奈のほうへ向き直った。
九条知夏は当てもなく街を歩いた。
生まれたばかりの杏奈は、あんなに小さくて、柔らかくて、胸にぴたりと貼りつくように甘えてきた。夜泣きだって、彼女の腕の中と、鼻歌まじりの子守歌だけが止められた。
あのころ、娘の世界には自分しかいなかった。
いつから、変わってしまったのだろう。
考えれば考えるほど息が詰まり――次の瞬間、胃の奥を鋭い痛みが貫いた。
「っ……」
九条知夏は反射的に身を折る。
数年前に胃の手術をしてから、痛みは日常だった。だが、こんな痛みは初めてだ。視界がすっと暗み、呼吸がうまくできない。
街灯の支柱へ手を伸ばす。けれど指先が震えて、力が入らなかった。
ぐらり、と世界が傾き――九条知夏は意識を手放した。
次に目を覚ましたとき、白い天井があった。病室のベッド。腕には点滴が刺さっている。
「目、覚めました?」看護師が近づいてくる。「気分は? 痛みはまだある?」
九条知夏は小さく首を振り、掠れた声を絞り出した。
「だいぶ……」
「急性胃けいれん。それに少し胃出血もしてたわ」看護師の口調には責める色が混じる。「どうしてここまで放っておいたの。胃カメラの結果も見たけど、びらんを伴う慢性胃炎。普段から食事が不規則でしょ。怒ったり、不安になったりしてない?」
九条知夏は唇を結び、答えなかった。
九条司と結婚してから、家のことに追われてきた。食事の時間なんて、崩れて当たり前になっていた。
看護師はため息をつく。
「今回は運がよかったのよ。もっと遅かったら命に関わってた。――ご主人に電話して。退院手続き、家族の署名が必要なの」
家族。
九条知夏はスマホを手に取った。すると通知が目に入る。娘の最新のSNS投稿。
杏奈のアカウントは、九条知夏がこっそりフォローしている。娘は知らない。
写真には黒いスーツの九条司。隣には清水環奈が寄り添い、少し首を傾けて柔らかく笑っている。二人の間で、九条杏奈が満面の笑みを浮かべていた。
温かい。仲のいい家族そのもの。
自分の居場所など、最初から写っていない。
キャプションはこうだった。
「大好きな環奈ママとごちそう! うれしい!」
九条知夏の指が微かに震え、関節が白くなる。
ようやく落ち着きかけた胃の鈍痛が、ぶり返すみたいに強まった。心臓まで引きつり、息が苦しい。
自分が痛みで死にかけていた間、夫と娘は別の女とごちそうを食べていた。
これ以上、皮肉で絶望的なことがあるだろうか。
目の縁が熱くなり、九条知夏は下唇を噛みしめた。
「電話、した?」看護師が促す。
九条知夏は顔を上げる。血の気のない顔で言った。
「……しません」
看護師は目を見開く。
「どうして? 迎えがいないと困るでしょ。付き添いが必要なの。病院の決まりでもあるし……」
「私には……家族がいません」
虚ろな声だった。
看護師は固まり、ベッドの足元に掛けてあるカルテをめくる。
「でも、既婚って書いてあるわよ。家族がいないって……じゃあ、さっきあなたを運んできた男の人は?」
九条知夏は必死に記憶を探った。意識が落ちる直前、ぼんやりと背の高い影が見えた気がする。けれど、知らない人だった。
「分かりません。通りすがりの親切な人だと思います」
「でもその人、あなたのこと知ってるみたいだった。名前で呼んでたわよ」
九条知夏は黙り込んだ。
この街で頼れる相手などいない。結婚してからは家の中に自分を閉じ込め、交友もほとんど途切れた。誰が自分を知っているのか、見当もつかない。
看護師は複雑そうに九条知夏を見て、またため息をつく。
「どうしても難しいなら、ご友人でもいいのよ。そういう決まりなの。あなたの安全のためでもあるんだから。今のあなたの状態じゃ、お一人で退院させるわけにはいかないわ」
九条知夏はスマホを取り、母へ電話をかけようとして――番号を表示したところで指が止まった。
当時、結婚に反対したのは母だった。学業を続けなさい! 男に人生をめちゃくちゃにされる気?――そう言われて、九条知夏は家と決裂し、九条司を選んだ。
今さら、どんな顔で電話をすればいい。
九条知夏はスマホをしまい、看護師へ視線を戻す。
「……私が自分で署名するのは、だめですか」
「だめよ!」看護師はきっぱりと言った。「病院の都合じゃない。あなたの体が深刻なの!」
そのとき、入口のほうから低く、よく通る男の声が響いた。
「すみません。遅くなりました」
九条知夏は息を呑み、声の方を見る。
扉のところに、背の高い男が立っていた。ダークカラーのコート。整った顔立ち。深い眼差し。男は大股で入ってきて、看護師に軽く会釈する。
「九条知夏さんの友人です。先ほど薬を受け取りに行っていました」
看護師が九条知夏を見て、声を上げる。
「ほらね! やっぱり知り合いじゃない!」
そして男に向き直り、早口で説明し始めた。
「急性胃けいれんに軽い出血。薬は投与済みですが、安静が必要です。注意点の説明と、手続きの署名をお願いします」
男は手続きを終えるとベッドのそばへ来て、少し身を屈めた。声は穏やかで、やけに優しい。
「九条さん、大丈夫ですか」
九条知夏は呆然としたまま、やっと言葉を絞り出す。
「……あなた、誰ですか」
