第4章 嫉妬する

「俺のことは黒崎と呼んでください」男は唇の端をわずかに持ち上げ、穏やかな声でそう言った。

黒崎さん――?

その呼び名が、妙に耳に残る。

九条知夏の目にふっと驚きが走る。

「私の知っている黒崎さん……ですか?」

電話でほんの数言やり取りしただけ。顔を合わせたことすらない。

「ええ、黒崎です」男は小さくうなずいた。

確かめが取れた瞬間、知夏の胸が跳ねた。

こんな偶然があるの?

道端で意識を失って、病院まで運んでくれた人が――新しい雇い主だなんて。

知夏は深く頭を下げる。

「黒崎さん……助けていただいて、本当にありがとうございます」

黒崎冬馬はその黒い瞳に、白く整った彼女の顔を静かに映し出す。声音は終始、柔らかい。

「大したことじゃありません。九条さん、気にしないでください」

――けれど、知夏にとっては大したことだった。

九条司と結婚して何年になるだろう。自分が倒れて入院している間、夫と娘は清水環奈と一緒に高級店で食事をしていた。

娘の投稿の一言一言が、鋭い針となって胸を刺した。

もうあの二人を諦めると決めたはずなのに、穴だらけの心は、まだ痛む。

知夏の瞳をよぎった痛みを、冬馬は見逃さなかった。目の色がわずかに沈む。

「九条さん、何か考え事ですか」

「……いいえ」知夏は我に返り、首を振る。「とにかくありがとうございます。正式に働き始めたら、必ず仕事でお返しします」

冬馬の顔に、かすかな困り色が浮かぶ。

「九条さん、考えすぎです。今は体を大切にしてください」

さっき看護師に叱られたばかりだ。若いのに、ここまで体を壊しているのが気がかりだった。

「……はい」

胸の奥に、ほんの少しだけ温かいものが落ちる。

一瞬、沈黙が降りた。

気まずさに耐えかねたように、知夏が遠慮がちに口を開く。

「黒崎さん、お忙しいなら……私は一人で大丈夫です」

迷惑はかけたくない。

冬馬は淡々と言う。

「今日は特に用事がありません。ここにいて、話し相手くらいにはなれます」

そう言うと、男は椅子を引き寄せ、病床の前に腰を下ろした。

知夏はそれ以上言えず、唇を閉じた。

午後いっぱい、冬馬は病室に付き添い、細やかに気を配った。まるで心を読んでいるかのように、喉が渇いたと感じた瞬間、ぬるめの水が差し出される。

そこまで気遣われるのは久しぶりで、知夏は戸惑うばかりだった。

それに比べて、知夏のスマホは――一日中、一度も鳴らない。

当然だ。あの父娘の心は清水環奈に掛かりきりで、知夏の安否など気にするはずがない。

夕方、退院手続きを終えて病院の外に出る。

知夏は唇を噛み、用意していた言葉を絞り出した。

「黒崎さん……今日は、本当にありがとうございました」

「どういたしまして。送ります」冬馬はそう言い、助手席のドアを開ける。

知夏は断りそびれて、身を屈めて乗り込んだ。

素直に乗ったのを見て、冬馬の目に一瞬だけ笑みがよぎる。すぐに運転席へ回り、エンジンをかけた。

知夏は少し緊張していた。結婚して以来、タクシー以外で知らない男の車に乗るのは初めてだ。

黒のベントレー。色味は控えめでも、最新の限定モデルだと分かる。財力の片鱗が覗いた。

横目で、背筋を伸ばして固まっている彼女を見ながら、冬馬が軽く顔を向ける。

「……手を貸しましょうか」

「え? な、何を……?」知夏はきょとんとした。

冬馬は小さく息を吐き、身を乗り出す。

整った顔が一気に近づき、彼のまとった大人の気配が、一瞬で彼女を包み込む。知夏は目を見開き、息が止まった。

「あなた――」

「すぐ終わります」冬馬が低く宥める。

次の瞬間、彼がしていたのはシートベルトを留めることだった。

胸まで上がっていた心臓が、すとんと落ちる。

ただ、距離が近すぎた。呼吸が絡み合いそうなほど――艶めいて、逃げ場がない。

カチリ、と乾いた音。

「……はい、終わりました」

冬馬は運転席へ戻る。

知夏はそっと息を吐いた。

「住所は?」

知夏は慌てて自宅の住所を告げる。

車は病院を離れ、家へ向かった。

道中、会話はない。知夏の心は静まらず、窓の外へ視線を逃がしたまま、冬馬を見ないようにした。

三十分後、屋敷の前に着く。

知夏はベルトを外し、改めて礼を言う。

「黒崎さん、送っていただいてありがとうございます!」

距離を置くように何度も「ありがとうございます」と言われ、冬馬は口元に小さな苦笑の弧をつくり、言葉にできない寂しさを飲み込んだ。

――彼女はまだ思い出していない。ただ、新しい雇い主としてしか見ていない。

「気にしないでください」

短い別れのやり取りを終え、知夏はその場に立ち、車が去るのを見送った。

ほどなくベントレーは走り去る。

同時に、九条司の車とすれ違った。

前席の九条司と清水環奈は、その光景をしっかり見ていた。

九条司の顔が、瞬時に曇る。

窓越しに見えた男の横顔――はっきりとは見えない。それでも、凡庸ではないことだけは分かった。

清水環奈がわざとらしく訊ねる。

「司、今の車の人、知り合いなの?」

「知らない」九条司は薄い唇を引き結ぶ。

「知夏って、どうしてあんな人と……わざわざ送ってもらうなんて、ずいぶん親切ね。二人って……」言葉を切り、意味ありげに視線を伏せる。

その時点で、九条司の顔色は最悪だった。

車は家の前で急停車し、九条司はドアを乱暴に開ける。知夏が家へ入ろうとした瞬間、彼は手首を掴んだ。潰れそうなほど強い。

知夏は眉をひそめる。

「放して。痛い」

九条司は放さない。むしろ力を強める。

知夏は振りほどこうとしても無理で、苛立ちが噴き出した。

「何なの、急に! 頭おかしいの?」

「説明しろ」九条司は歯を噛みしめる。

知夏は冷ややかに返す。

「あなたこそ、落ち着いて」

「――あいつは誰だ!」九条司が怒鳴る。

知夏は少し考え、黒崎のことだと察した。

「……見てたのね」声は淡々としていた。

けれど、説明すべきなのは――彼のほうじゃないの?

一日中、清水環奈と一緒だったくせに。

知夏の態度があまりに冷たいせいで、九条司の苛立ちは頂点に達した。

「答えろ! あの男は誰だ!」

「そんなに怒ること?」知夏は口元に嘲るような弧を描く。

愛していないくせに、嫉妬するふり。

九条司は知夏を引き寄せた。

知夏はよろめき、危うく胸にぶつかりそうになる。体勢を立て直して見上げると、怒りで冷えきった黒い瞳がそこにあった。

「誰だ」執拗に問う。

知夏は淡々と返す。

「……あなたに知る必要はない」

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