第7章 浮気相手が同居?夫が深夜に付き添う?
夜八時半。階下から車の音が聞こえた。
ほどなくして、父娘が二階へ上がってくる。
風呂上がりの九条知夏が廊下へ出たところで、二人の会話が耳に入った。
「パパ、環奈ちゃん、明日本当にうちに来てヴァイオリン教えてくれるの?」
九条杏奈が大きな目をぱちぱちさせ、小さな顔いっぱいに期待を浮かべる。
「もちろんだ」
九条司が娘の頭を撫でた。
「今日は早く寝ろ。明日はしっかりやるんだぞ」
「うん! ちゃんとやる!」
「やったぁ、うれしい——」
弾けた声が、次の瞬間にはしゅんと萎む。
「でもパパ、明日もお仕事だよね。じゃなきゃ三人でいられるのに……あ、違う。悪いママもいるんだった」
苛立ち混じりの小さな呟きが続く。
「悪いママ、いなければいいのに」
「杏奈、そんな言い方するな」
叱る声なのに、怒気はない。軽く払うだけの注意。
杏奈は唇を尖らせた。
「だってママが悪いんだもん。環奈ちゃんに意地悪ばっかり。ほんとイヤ」
司は娘を宥めるようにして子ども部屋へ戻した。
主寝室の扉が開く。
真正面でぶつかったのは、九条知夏の、波ひとつ立たない目だった。
司が唇を引き結ぶ。
「……お前」
知夏は視線を外し、冷めたまま部屋の奥へ戻る。
司の眉間が深く寄った。
「今の、聞いてたのか」
知夏は答えない。
「何だその態度。娘に嫌われてるなら、自分に原因があるって思わないのか」
知夏は思わず、笑いそうになった。
この父娘の目には、彼女が何をしようがしまいが、清水環奈より下であるべき存在にしか映らないのか。
知夏は顔を上げ、苛立ちを隠しきれない夫を一瞥する。声は凪いで、ひどく冷たい。
「私、今なにか言った?」
「その不機嫌なツラ、誰に向けてる!」司が声を荒げる。「家で反省しろって言っただろ。反省したのか!」
「病んでるのは私じゃない。あなたたちよ。反省が必要なのは」
知夏は背を向け、ベッドへ向かう。布団をめくって、横になろうとした。
司が苛立ちに任せて腕を掴む。
「いい加減にしろ! いつまで騒ぐつもりだ。分別ってものがないのか。俺も娘も、お前が嫌いになるまでやるつもりか!」
知夏は手を振り払った。
「どうせあなたたちは、私がどうしたって嫌うんでしょう?」
愚かだった。崩れかけた結婚にしがみつき、穴だらけの心で、この家だけは守れると信じて。
けれど、夫も娘も、最初から「彼女のいない家」を望んでいたのだ。
「話にならない!」
司は吐き捨て、背を向ける。
バタン——重い音が部屋を震わせた。
知夏は追わない。
そのまま、眠った。久しぶりに、深く。
翌朝。階下へ降りると、レッスン室から楽しげな声が漏れてくる。清水環奈と杏奈だ。
途切れ途切れのヴァイオリンの音が、家の中に一日中、細く長く響いた。
夜になって、突然の豪雨。
「杏奈、そろそろ帰るね。明日また教えに来る」
環奈が立ち上がると、杏奈がすぐに袖を引いた。
「環奈ちゃん、雨すごいよ。帰らないで、ここに泊まって! 一緒に寝たい!」
環奈は下唇を噛み、困ったように目を伏せる。
「杏奈、それは……よくないよ。ママが嫌がるかも」
「関係ない!」
杏奈は頬を膨らませ、環奈の脚にしがみついた。
「わたし、環奈ちゃんがいい! 泊まって!」
それから父のほうを見上げる。
「パパ、環奈ちゃんに言って! 泊まってって!」
司は環奈へ視線を向けた。
「環奈、雨がひどい。今日は泊まれ」
環奈は迷うそぶりを見せる。
「司、それは……知夏が……」
司が鼻で笑う。
「俺の家だ。あいつに口出しする権利はない」
「やったぁ!」
杏奈が飛び跳ねる。
「環奈ちゃんと一緒に寝られる! ねえパパ、環奈ちゃん、ずっとここに住んでいい? 毎日いっしょがいい!」
「それは環奈次第だな」
父娘の言葉が、知夏の耳にも届く。
指先が掌に食い込むほど、爪を立てた。
残酷だ。けれど、もう分かっている。
知夏は踵を返し、二階へ戻った。温もりのない場所から、早く消えたかった。
雨はさらに激しくなり、稲光と雷鳴が夜を裂く。
ズズン、と地響きのような音が鳴り響いた。
深夜。男のスマホが二度鳴って、ベッドが軋む。司が起きた気配がした。
暗闇の中で知夏は目を開ける。
そっと起き上がり、音を殺して廊下へ出た。
客室の扉は半分ほど開いていて、中から低く優しい声が漏れてくる。
「環奈、怖がらなくていい。俺がいる」
——なんて、優しくて一途。
相手が自分の夫でなければ。相手が夫の忘れられない高嶺の花でなければ。
雷光が走った。
「きゃっ……!」
環奈が悲鳴を上げ、司の身体にしがみつく。
司が一瞬固まり、震える背中を感じると、そっと撫でて宥めた。
「大丈夫だ。俺がいる」
廊下の影で、知夏はただ見ていた。
ふいに環奈がこちらを向き、目が合う。わざとらしく息を呑み、慌てて腰に回した腕を離した。
「ごめん、知夏! 誤解しないで……!」
司が振り向き、知夏を見て顔を強張らせる。
「違う、見たままじゃない。環奈が雷が怖いだけだ。俺はただ——お前が変に考えるから……」
知夏は黙って背を向けた。
「知夏!」
司が追いかけようとする。
その腕を環奈が掴み、震える声で縋った。
「司、行かないで……怖いの」
すぐに知夏が戻ってきた。腕に毛布を抱えている。
二人の脇をすり抜け、客室の大きなベッドへ毛布を放り投げた。
「夜は静かにして。私の睡眠の邪魔だけはしないで」
それだけ言い、去ろうとする。
空気が一瞬で凍った。
司の顔から、一瞬にして血の気が引いていく。飛び出して知夏の手首を掴み、歯を噛みしめた。
「今の言葉、どういう意味だ!」
知夏は表情ひとつ変えない。
「うるさくしないでって言っただけ」
司は知夏を壁へ押しつける。目は陰って、怒りが滲む。
「いつまで騒ぐつもりだ。説明しただろ……!」
「説明なんて要らない」
知夏が淡々と遮る。
司の顔が歪む。
そこへ環奈が追いかけてきて、間に割って入る。
「司、怒らないで。全部私のせい。私が知夏にちゃんと——」
「黙って」
知夏の冷たい視線に、環奈の言葉が止まる。
司の手に力が入った。手首が軋む痛みに、知夏の顔が白くなる。
「放して!」
「司、知夏を傷つけないで——」
環奈が止めるふりをして手を伸ばす。
「触らないで!」
知夏は嫌悪を隠さず吐き捨てた。
揉み合う中で、環奈がわざと知夏に身体をぶつけた。次の瞬間、痛みに耐えるような声を上げ、床へ崩れ落ちる。
「環奈!」
司が慌てて抱きとめた。
押されてよろめいた知夏は足を踏み外し、階段へ——。
ドン、ドン——。
身体が転がり落ち、全身が砕けるように痛む。額を打った熱が頬を伝い、知夏は反射的に手で拭った。
掌が赤く染まる。
鮮烈な赤。
司の瞳が大きく揺れ、階段を駆け下りようとした、そのとき。
「……痛い」
環奈が腹を押さえ、顔を歪める。
司の意識が一気に引き戻され、焦りと心配が表情に浮かぶ。
「どうした、環奈。どこが痛い。見せて——」
「お腹……司、お腹が……」
環奈は司の腕にしがみついた。震える声で、言葉を続ける。
「私の……子ども……」
「……子ども?」
司の身体が固まった。
白い寝間着が、血で赤く染まっていく。
環奈が涙声で縋る。
「司、お願い……助けて……!」
「病院だ!」
司は考える暇もなく、環奈を抱き上げ、階段を駆け下りた。
階段の下で、ようやく上体を起こし手すりにもたれていた知夏は、「子ども」という言葉に凍りつく。
——もう、子どもがいるの?
司が環奈を抱いたまま通り過ぎようとした瞬間、知夏は痛みに耐えて伸ばした手で、司のズボンの裾を掴んだ。目は真っ赤で、声が震える。
「九条司……子ども……あなたの子なの!?」
