第4章
玲子視点
昨夜の蓮司との対立で、私は一睡もできなかった。夜が明けると、あの息の詰まる家を飛び出し、奈央のスタジオへ直行した。古い玲子の死を告げる、儀式が必要だったのだ。
髪を切った瞬間、ここ何年も感じたことのない解放感を覚えた。
十年間、蓮司は私の長い髪を彼のお気に入りの「資産」だと褒めそやした。まるで私を縛り付ける見えない鎖であるかのように、彼は指を私の髪に絡ませたものだ。今、その鎖は床に散らばっている。蓮司に対する、私の静かな反逆だ。
「マジか、ソフ」奈央がコーヒーを二つ持って入ってきた。彼女は立ち止まり、私の新しい姿、蓮司が好んだブロンドのハイライトから、地毛の深いブラウンに戻った肩までの髪をまじまじと見つめた。「やっとあんた自身に戻ったって感じ」
鏡の前でくるりと回り、切り揃えられたばかりの毛先に指を通す。「十年前のあの子を見つけた気分」
奈央は私にコーヒーを手渡した。その目には、賛同と、そしてほんの少しの哀しみが浮かんでいた。
奈央のレコーディングスタジオは、すっかり様変わりしていた。壁の一面は片付けられ、写真や書類、タイムラインチャートで埋め尽くされている。コンピューターの画面には、蓮司の様々な犯罪行為――資金洗浄の図式、改竄された納税書類、彼が「スポンサー」する相手との露骨なメッセージ――が表示されていた。かつて音楽を創造するためだけにあったこの場所は、私たちの秘密の司令室と化していた。
「これ見て」奈央は暗号化されたフォルダを開いた。「あいつのクラウドバックアップにハッキングした。未成年のモデルたちとのやり取り、マジで吐き気がする、このくそ野郎!」
メッセージをスクロールしながら、胸に鋭い痛みを感じた。嫉妬からではない。怒りと、嫌悪からだ。蓮司が彼女たちに約束したことはすべて、かつて私を誘惑したのと同じ手口だった。
それから数時間、私はマイクに向かって、蓮司が十年間にわたって私をいかに組織的に支配してきたかを詳述した。初期の甘い言葉から、友人や家族から徐々に私を孤立させていったこと。私の芸術的才能を褒め称えたかと思えば、後には私の創作を「素人の趣味」と嘲笑するようになったこと。ロマンチックなサプライズから、計算され尽くした報酬と罰のシステムに至るまで。
「彼の愛には条件があった」録音された私の声は、不気味なほど穏やかだった。「私が彼の気に入らない振る舞いをすると、彼は私を『罰した』。旅行の計画をキャンセルしたり、人前で恥をかかせたり、一晩中家に帰ってこなかったり。私が謝罪して、自分を改めるまで」
録音を終えた後も、私たちは証拠の整理を続けた。突然、奈央の表情が変わった。
「クソ、玲子、これ見て」彼女は画面上の一連の送金記録と暗号化されたメールを指さした。「これ、蓮司個人の犯罪だけじゃない。神谷家ぐるみの犯罪ネットワークよ。資金洗浄、脱税、もしかしたら人身売買まで」
「玲子」奈央は真剣な眼差しで私を見つめた。「これはもう、ただの復讐じゃない。戦争を仕掛けるってことよ。本当にこの道を行く覚悟、ある?」
私は証拠の壁を見つめた。「私にはもう、失うものなんて何もないよ、奈央」
―――
私たちはファイルをまとめた。不意に、私のスマホがSNSの通知で震えた。
それは、忘れたと思っていた名前からだった。森田颯。
「十年ぶりだな。髪型、新しくしたんだ。驚いたよ。音楽で世界を変えたいって言ってたあの子は、まだどこかにいるのかな?」
画面の上で指が止まる。心臓の鼓動が、急に速くなった。颯。大学時代の音楽のパートナーで、私の魂に最も近かった人。私が音楽の道ではなく蓮司を選んだとき、彼は静かに私の人生から姿を消した。
記憶が、堰を切ったかのように、激しい濁流となって押し寄せた。キャンパスのカフェで、薄暗い照明の下、夜通し二人で曲を紡いだあの熱狂。小さな音楽祭の、熱気と緊張が入り混じるステージで、初めて颯と音を重ねた瞬間の高揚。そして、満天の星が瞬く夜空の下、互いの夢と、漠然とした不安を分かち合った、あの甘く切ない時間――。
颯は、確かに私を愛してくれていた。その瞳は、いつも真っ直ぐに私だけを映し、私の才能を信じ、私の全てを受け入れてくれていた。
しかし、私は、その純粋な愛を、蓮司が差し出した、眩いばかりの華やかな生活と引き換えに、自ら手放したのだ。あの時の私は、何を見ていたのだろう。何を欲していたのだろう。今、この冷たい現実の中で、その選択が、私自身を閉じ込める牢獄となって、目の前に立ちはだかっている。
颯のプロフィールをクリックすると、彼がインディーズ音楽シーンで名の知れたプロデューサーになっており、新しい才能を発掘することに特化した自身のレコードレーベルを立ち上げていることを知った。彼は順調にやっていた。かつて私たちが共に計画した道を、ただ私のいない隣で歩み続けていたのだ。
「誰にメールしてるの?」奈央が運転席から覗き込んできた。
「森田颯」私は小さく答えた。「大学の…友達」
「あんたに夢中だった、あのイケメンの音楽専攻の?」奈央は片眉を上げた。「返事、するの?」
私は一瞬ためらい、そして打ち込んだ。「彼女はまだここにいるよ。ただ、誰かが作った人生のバージョンに、あまりにも長く囚われていただけ。残された時間で、本当の自分を見つけたいと思ってる」
―――
颯のメッセージを読んだ後、私はスマホをしまった。「今夜はあの家に帰りたくない」私は奈央に言った。「代わりにここで徹夜しよう」
最終的な証拠ファイルを整理し始めて二時間ほど経った頃、腹部に焼けつくような痛みが走った。私は体を二つに折り、喉に鉄の味を感じたと思うと、口の端から温かい血が流れ落ちた。
「玲子!」視界が暗転していく中で、奈央の声が遠のいていく。
目が覚めると、私は病院のベッドに横たわっていた。傍らには奈央が心配そうに立ち、医師が私のバイタルをチェックしていた。
「膵臓癌が、胃に転移しています」
医師の声は、鉛のように重く、診察室の空気そのものを凝固させた。彼の視線は、私の顔ではなく、冷たいカルテの文字に釘付けになっている。「それが、今回の出血の原因です。最初の診断から、わずか四ヶ月が経ちましたが、予想以上に病状の悪化が早い。このペースでは、当初の余命六ヶ月も、もはや、あと二ヶ月も残っていないかもしれません」
その言葉が、鼓膜を突き破り、脳髄に直接響いた瞬間、私の全身から、血の気が引いていくのが分かった。耳の奥で、遠い潮騒のような幻聴が聞こえ、視界が急速に狭まっていく。呼吸の仕方を忘れたかのように、肺が軋み、胃の奥底から、冷たい鉄の味が込み上げてきた。
四ヶ月。たったそれだけの時間で、私の命の砂時計は、こんなにも早く傾いていたのか。残された時間が、指の間から零れ落ちる砂のように、加速して消えていく。二ヶ月。その響きは、あまりにも短く、あまりにも無慈悲だった。
「何か治療法は?」奈央が、わずかに震える声で尋ねた。
医師は首を横に振った。「痛みを和らげるための、対症療法しかありません」
医師が去った後、私は身を起こそうともがいた。「続けなきゃ。思ったより、時間がない」
「玲子、休まなきゃダメよ」奈央は私の手を取った。「もう、諦めた方が.......」
「死ぬなら」私は彼女の言葉を遮り、毅然とした声で言った。「尊厳を持って死ぬ。私が死んだ後、蓮司が私のことなんて物語の一つのエピソードだったかのように人生を続けるなんて、絶対に許さない」
二日後、私は無理を押して蓮司のもとへ戻り、すべてが普段通りであるかのように装った。だが、玄関をくぐった途端、蓮司の表情は期待から驚き、そして怒りへと変わった。
「髪に何しやがった」彼は私の短い髪を睨みつけ、危険なほど低い声で言った。
「切ったの」私は冷静に答え、まっすぐバーカウンターへ向かい、自分に焼酎を注いだ。
「パーティーが近いってのに?」蓮司は追いついてきて、私の腕を掴んだ。「俺がお前の長い髪をどれだけ好きだったか知ってるだろ!宣伝用の写真は全部、長い髪のお前なんだぞ!」
「あなたが愛してたんでしょ、私じゃない」私は彼の手を振り払った。「たまにはあなたの完璧な恋人役を演じるんじゃなくて、自分のために何かしたくなったのかも」
「気でも狂ったのか?」蓮司は叫んだ。
「狂ったのかもね」私は冷たく微笑んだ。「あるいは、あなたのご機嫌取りに疲れただけかも」
「まるで死にかけの病人みたいだぞ!」彼は口走った。
私は凍りつき、それからゆっくりと彼の方を向いた。「そうかもね」
蓮司の表情は、怒りから困惑へ、そして奇妙な柔らかさへとすぐに変わった。彼は私に近づき、突然、あの見慣れた、謝罪の表情を浮かべた――私を傷つけた後、いつも信頼を取り戻すために使っていた、あの顔だ。
「ごめんよ、玲子」彼は優しく言い、私の新しい髪型をそっと撫でた。「ただストレスが溜まってるんだ。このパーティーは俺たち二人にとって重要なんだ――投資家、パートナー、メディア、みんな来る。すべてを完璧にしたいんだよ」
「完璧?」私はその言葉を静かに繰り返した。
「そうさ」蓮司は微笑み、ポケットから小さな箱を取り出した。「これは君に。お詫びの印だ」
箱を開けると、ダイヤモンドのネックレスが入っていた。精巧だが、魂がこもっていない――まるで私たちの関係そのものだった。
「完璧ね」私は微笑んだ。
これは、彼が決して忘れることのない、完璧なパフォーマンスになるだろう。
たとえそれが、私の人生の、最後の舞台になったとしても。
