第1章
普段なら夏休みはV市の自宅で過ごすことを好む雄介が、今年は珍しく、T市にある私の実家へ行きたいと言いだした。
夫の哲平はすぐに賛成してくれたものの、病院の手術予定がぎっしり詰まっていて身動きが取れない、と残念そうに肩を落とした。私は息子がただ祖父母に会いたがっているだけだと思い込み、その提案を快諾した。結局、私は雄介だけを連れてT市へ飛び、実家で丸々ひと夏を過ごすことになったのだ。
そして夏休みが明け、私が雄介を連れてV市に戻ってきた、その直後のことだった——。
自宅の玄関先に着くや否や、隣人の希美に捕まり、廊下の隅へと引っ張り込まれた。
「律子さん、やっと会えた! ずっと家に引きこもってるのかと思ったわよ」
希美は意味ありげな笑みを浮かべ、声を潜めた。
「あなたたち夫婦、最近ホントに熱烈ねぇ。何度か窓越しに見ちゃったわよ、リビングで……お二人だけの世界に没頭してるのを。一度なんて掃き出し窓に張り付いて、もう、すごい光景だったわ……」
彼女は言葉を切り、艶めかしい笑みを深めた。
「情熱を保つ秘訣としては刺激的でいいと思うわよ。でもね、奥さん……」
希美の表情が急に真剣なものになる。
「言っておくけど、先週、うちの栞奈が見ちゃったのよ。あの子まだ七歳なのに、『何してるの?』って聞かれちゃって。だからお願い、これからはカーテン閉めてくれない? 孫にあの光景を説明するのは、もう御免だもの」
頭の中で、轟音と共に何かが砕け散った。
夏休みの間、私はずっとT市で雄介と両親と一緒にいた。一度たりともV市には戻っていない。
だとしたら、希美が見た〝私〟とは、一体誰なのか?
私は必死に笑顔を貼り付け、希美に頷いてみせた。
「分かったわ、これからは気をつける。教えてくれてありがとう」
背を向け、自宅のドアを開ける。手は小刻みに震え、心臓の音がうるさいほど耳元で鳴り響いていた。
家に入った瞬間、雄介が電話をしている声が聞こえた。ソファの陰に隠れ、声を潜めているようだったが、その内容は嫌というほど鮮明に私の耳に届いた。
「パパ、今回のおれ、超ファインプレーだったでしょ! 約束通り、パパの若いカノジョのご機嫌が直ったら、お小遣いは週五万にアップだからね!」
「おれがママを連れて、丸々一カ月もおじいちゃんたちの家にいたおかげじゃん。おれがいなきゃ、こんな上手くいかなかったでしょ? この前パパのカノジョがヒス起こして、パパの顔ひっかいた時だって、おれが『ふざけてて怪我させた』ってママに嘘ついて庇ってあげたんだから!」
「あ、そうだパパ。約束の最新ゲーム機、いつ買ってくれるの?」
頭から氷水を浴びせられたように、私はその場に立ち尽くした。
すべては仕組まれていたのだ。雄介が実家に行きたがったのは、哲平に自由な時間を与えるため。そして哲平は、私がいないこの夏休みの間、別の女をこの家に連れ込んでいたのだ。
哲平が私を裏切るなんて、夢にも思わなかった。
私と哲平の出会いは、大学のディベート大会だった。前大会の王者だった彼は、学内に敵なしと言われていた。誰もが彼の勝利を疑わなかった試合で、私と対峙した彼はなぜか全力を出さず、わざと隙を見せた。結果、私たちのチームが勝利したのだ。
試合後、彼に片思いをしていたチームメイトの女子が、腹を立てて私に食ってかかってきた。揉み合いになり、彼女は私を突き飛ばし、二人とも池に落ちてしまった。泳げない私は必死にもがいたが、体は沈んでいくばかり。飛び込んだ哲平は、まずその女子を岸に上げ、それから私を助けに戻ってきた。
引き上げられた時、私は水を大量に飲んで意識が朦朧としていた。彼が人工呼吸をしてくれ、目が覚めた時に最初に見えたのは、彼の不安げで、でも優しい瞳だった。
その後、哲平からのアプローチで付き合うことになった時、私は彼になぜ私を先に助けなかったのかと問い詰めた。
彼は悪戯っぽく笑ってこう言ったのだ。
「堂々とキスする口実が欲しかったから」
その瞬間、私は完全に彼に堕ちた。
大学時代から愛を育み、卒業してすぐに結婚した。盛大な結婚式を挙げ、結婚後の生活もすべて私の好みに合わせてくれた。彼の衣食住の世話をする私に、彼は文句一つ言わず「最高のケアだ」と感謝してくれた。記念日を欠かさず祝い、サプライズを用意し、私に決して嫌な思いをさせず、情緒的な満足感を常に与えてくれた。
誰もが哲平を「いい夫」だと絶賛した。優しく、家庭的で、責任感があり、私に怒ることもなく、雄介にも忍耐強い。
「哲平さんのような人と結婚できて、あなたは幸せ者ね」と友人たちは羨んだ。
私も、これが幸せなのだと信じていた。
けれど今思えば、不審な兆候はとっくにあったのだ。半年前、見たことのない白いワイシャツがクローゼットにかかっていた時、彼は「出張で買った」と言った。一カ月前、深夜帰宅した彼の着替えを手伝った時、腰のあたりに深い引っかき傷があった。心配して尋ねる私に、彼は「荷物を運ぶ時にぶつけた」と答えた。
私はあの時、そのすべてを信じてしまっていた。
気配を殺してキッチンへ逃げ込み、口元を押さえて嗚咽を殺した。誰もが羨む愛なんて、蓋を開ければこんなにも醜悪なものだった。あの頃の誓いも、優しい約束も、すべてには賞味期限があったのだ。
どれくらい時間が経っただろうか。スマホが短く震えた。
画面を見ると、かつての上司である新井幸恵からのメッセージだった。
『律子、マネージャー職の募集がまた始まったの。あなたが適任だと思うわ。家庭を大切にしているのは知っているけれど、本当に復帰を考えてみない? 滅多にないチャンスよ、これを逃したら次はいつになるか分からないわ』
私はその文字を見つめながら、この家庭のために迷わず仕事を辞めた日のことを思い出した。哲平は言った。「一生愛する」「君は家で僕と子供を支えてくれればいい」「幸せな家庭を作るから」と。
その言葉を信じ、専業主婦を八年続けた。
今、あの親子二人を除けば、私には何も残っていない。現実は容赦なく私の頬を張り飛ばし、教えてくれたのだ。いわゆる「幸せ」なんてものは、私一人の独りよがりな幻想に過ぎなかったのだと。
哲平、あなたが裏切ったのよ。私は絶対に許さない。
深く息を吸い込み、私はスマホの画面をタップした。幸恵への返信を打ち込む。
『幸恵さん、お話をお受けします。私は仕事に戻ります』
