第4章

 コンクールの舞台裏。白いドレスに身を包んだ遥香は、ヴァイオリンを固く抱きしめたまま緊張した面持ちで立っていた。私を見つけるなり、彼女の瞳がパッと輝く。そのまま私の手を取り、廊下の奥へと駆け出した。

「律子さん! 知子さんに会わせてあげる!」

 心臓がドキンと嫌な音を立てた。それでも私は彼女に引かれるまま長い廊下を抜け、半開きになった控室のドアの前で足を止めた。

「知子先生、入ってもいいですか?」

 遥香がノックする。

「ええ、もちろんよ」

 その声は優しく、上品だった。監視モニターの中で、私の夫に跨り、私のネグリジェを着ていたあの女とは別人のようだ。

 彼女は化粧鏡の前に座っていた。黒のイブニングドレスに、精巧に結い上げられた夜会巻き。化粧直しをしていた手が止まり、こちらを振り向く。その微笑みは、どこまでも優雅で洗練されていた。

 遥香がサイン帳を差し出す。知子がうつむいてペンを走らせたその時、私の視線はどうしようもなく彼女の手首に吸い寄せられた——。

 あの腕時計だ。

 華奢なバンド、文字盤を取り囲む砕いたダイヤモンド。ライトを浴びてキラキラと輝いている。

 哲平のポケットから転がり落ちた、あのアレだ。

 私はそれを凝視したまま、頭の中が真っ白になった。

 私の視線に気づいたのか、知子は手首を持ち上げ、ふふっと笑った。

「この時計、彼からのプレゼントなんです」

 自慢げな響きを含んだ声。彼女は意味ありげな眼差しで私を見つめ、反応を窺っているようだった。

 隣にいた幸恵が感嘆の声を上げる。

「まあ素敵。今年の限定モデルじゃない? 予約しないと手に入らないやつよ。彼氏さん、マメな方なのねえ」

 私はバッグの持ち手を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込むほどに。

 そうか、哲平はずっと前からこの時計を予約していたのだ——彼女のために。私の手首にある紺色の時計は、単なる罪滅ぼしのついでに買ったものに過ぎなかった。

 書き終えたサイン帳を返し、知子は優しく遥香の頭を撫でた。

「頑張ってね。あなたならきっと大丈夫」

 そして、彼女は立ち上がった。

「ごめんなさいね。彼が迎えに来たから、これで失礼するわ」

 そう言い残すと、彼女はとろけるような甘い笑みを浮かべ、ヒールの音を響かせて控室を出て行った。

 幸恵が遥香を捕まえて演奏曲の確認を始めた隙に、私は手洗いを口実に踵を返し、彼女の後を追った。

 廊下の突き当たり。そこに、彼がいた。

 白シャツにスラックス姿の哲平が、大きな赤いバラの花束を抱えて非常階段のドアの前に立っていた。知子の姿を認めるなり、彼はすぐに歩み寄り、両腕を広げて彼女を抱きしめ、頬に口づけを落とした。

「待った?」

 知子が甘えるように彼の胸を押す。

「着いたばかりだよ。ほら、君に」

 哲平は背中に隠していた花束を、まるで宝物を献上する子供のように差し出した。知子はそれを受け取り、つま先立ちをして彼の唇にキスをした。

 私は廊下の角に立ち尽くし、抱き合ってキスをする二人を眺めていた。まるで荒唐無稽な三文芝居を見ているようだ。かつて私に向けられた優しい抱擁も、情熱的な口づけも、彼は他の誰かにだって与えることができたのだ。

 私はスマホを取り出し、哲平に電話をかけた。

 呼び出し音が鳴る。彼が知子の腰に手を回したまま、スマホの画面を覗き込むのが見えた。一瞬、瞳に狼狽の色が走る。だが彼はすぐに表情を整え、通話ボタンを押した。

「律子?」

 その声は、いつも通り落ち着き払っていた。

「どうしたんだい?」

「今、どこ?」

 私は尋ねた。

「病院だよ」彼は淀みなく答えた。

「ちょうどオペが終わって、医局に戻るところだ」

 私がじっと見つめる先で、彼は知子を強く抱き寄せた。知子がわざとらしく、艶めかしい声を漏らす。

「今の声、なに?」

 哲平の表情が強張る。彼は早口で言い訳を並べた。

「あ、ああ、看護師が棚を動かしててね、ぶつかったみたいだ」

「そう」

 私は深く息を吸い込んだ。

「哲平、届いた荷物、ちゃんと確認しておいてね。すごく大事なものが入ってるから」

 それだけ言って、私は電話を切った数メートル先で、哲平が安堵の息を吐くのが見えた。彼はスマホをポケットにねじ込むと、知子の顔を両手で包み込み、先ほどよりも深く、激しいキスをした。

 翌日の午前中、哲平から電話がかかってきた。

「律子! 気でも狂ったのか?!」

 彼の声は焦りとパニックで裏返っていた。

「離婚届ってどういうことだ? 僕たち、あんなにうまくいっていただろ? なんで急に離婚なんて言い出すんだ!」

「うまくいっていた?」私は冷ややかに笑った。

「じゃあ、ベッドサイドの引き出しに入っていた遠隔操作のオモチャは何? どうしてリモコンだけがあるの?」

 数秒の沈黙。そして、彼の声は急に哀れっぽいものに変わった。

「愛しい律子……実は、恥ずかしくて言えなかったんだ。数週間前に注文して、君を喜ばせようと思って……でも、いざ届いたら怖くなってしまったんだ。君に変態だと思われたらどうしようって。だから本体は別の場所に隠して、言い出せないままだったんだよ……」

「君は僕の最愛の人だ」

 胸が痛くなるほど誠実な響きだった。

「僕が君を裏切るわけがないだろう? 律子、君は何か誤解しているんだ。今夜八時に必ず帰る。帰ったらゆっくり話し合おう、ね?」

 私の返事も待たず、彼は慌ただしく電話を切った。

 その日の夜、私はあの家に戻った。

 ドアを開けると、ソファに座り込んでゲームに熱中している雄介の姿があった。その手にあるのは、知子がプレゼントした最新型のゲーム機だ。ドアの開く音に気づいて顔を上げた彼の表情に、一瞬だけ動揺が走る。

「ママ? なんだ、もう帰ってきたの?」

 私が答える間もなく、彼はすぐに視線を戻し、ゲームの続きを始めた。私の存在など、どうでもいいと言わんばかりに。

 私はリビングに立ち尽くし、目の前の八歳の息子を見つめた。十月十日お腹の中で守り、夜も眠れずに育て上げ、この世で一番大切な宝物だと信じてきた息子。けれど今、彼はあの女から貰ったプレゼントを悪びれもせず弄び、父親の不始末を隠蔽し、私を騙してもいい愚か者として扱っている。

 愛してやまない息子は、結果として私を刺す刃となり、私の心を血まみれにした。

 八時になった。哲平は帰ってこなかった。

 私はもう一度、彼に電話をかけた。

「律子……」

 荒い息遣い。背後から微かに聞こえる喧騒。

「ごめん、急患が入ってしまって……今から緊急オペなんだ……今日はどうしても帰れない。明日、明日話そう。いいだろう?」

 彼は逃げるように電話を切った。

 だが、そのわずか数秒の間に、私は受話器の向こうから漏れ聞こえる女の押し殺したような嗚咽と、ベッドがギシギシと軋む音を確かに聞いた。

 吐き気がした。

 私は口を押さえてトイレに駆け込み、胃の中のものを全て吐き出した。かつてあれほど愛した人を、思い出すだけで嘔吐するほど嫌悪する日が来るなんて、なんという皮肉だろう。

 胃液まで吐き尽くし、私は冷たいタイルの上にへたり込んだ。涙が止まらなかった。

 ようやく呼吸を整えてトイレを出ると、私はまだゲームをしている雄介の前にしゃがみ込んだ。

「雄介」

 できるだけ優しい声を絞り出した。

「ママに隠していること、ない?」

 彼は顔を上げ、不思議そうに瞬きをした。そして、無垢で愛らしい笑顔を浮かべた。

「ないよ、ママ」

「本当に?」

「本当にないってば!」

 彼はゲーム機を置くと、私の首に小さな腕を回して抱きついてきた。

「ママ、大好き! 世界で一番愛してるよ!」

 私は彼の小さな顔を見つめた。その澄み切った瞳には、罪悪感の欠片も浮かんでいなかった。

 心が、完全に冷え切った。

 私は立ち上がり、荷造りしておいたスーツケースを手に取ると、一度も振り返ることなく家を出た。

 車に乗り込んだ瞬間、張り詰めていた糸が切れた。涙が決壊したダムのように溢れ出し、どうやっても止まらない。ハンドルに突っ伏し、全身を震わせて、息ができなくなるほど泣きじゃくった。

 どれくらい泣いただろうか。私は涙を拭うと、スマホを取り出し、吉本へメッセージを送った。

【親権は放棄します】

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