第2章

柚木結華が振り返ると、バスルームの灯りがついていた。途切れず響く水音――あの男がシャワーを浴びているのだろう。

外では九条陽向がドアを叩き続けている。やめる気配はない。

悪いのは九条陽向だ。結華の中で、あの男はもうとっくに恋愛枠から退場している。けれど、このまま弄ばれて終わるつもりはなかった。見知らぬ男たちの視線に晒され、勝手に品定めされるなんて――そんな屈辱、受け入れられるわけがない。

ただし、今ここで正面衝突はできない。

やるなら一撃。H市で徹底的に身を滅ぼさせて、ようやく溜飲が下がる。

それより何より、今は逃げるのが先だ。

揉みくちゃにされたドレスはもう着られない。正面から出れば、九条陽向に捕まる。

焦って思案していると、ソファに男のスーツジャケットが置かれているのが目に入った。

――これだ。

数分後。サイズの合わないジャケットを羽織った細い影が、バルコニーの引き戸から外へ滑り出る。下を一瞥し、息を殺して隣のバルコニーへ身を翻した。

隣室の扉をそっと押し開ける。室内は無人。胸の奥で固まっていたものが、ようやくほどけた。

その瞬間、背後の叩く音がぴたりと止まった。気づかれたら終わりだ。結華は何が起きたのか確かめる余裕もなく、動きを速めた。

一方、廊下。

九条陽向が手を止めた途端、扉が内側から開いた。

現れた男を見た瞬間、九条陽向の声が裏返り、震える。

「……えっ、あ、あなた……叔父さん?!」

「……ああ」

男の返事は短く、露骨に不機嫌だった。背後で消えた女への苛立ちが滲み、言葉まで刺々しい。

「用があるなら言え。くだらないことなら帰れ」

九条陽向はしどろもどろになる。

「ぼ、僕……彼女を……俺の彼女が……」

男の顔が一気に冷えた。

「彼女を見失った程度で、家の年長者に泣きつくのか。情けない」

吐き捨てるように続ける。

「明日の晩餐会までに、自分で見つけて連れて来い」

「は、はい! 必ず!」

九条陽向は何度も頷き、逃げるように頭を下げた。

「し、失礼します!」

九条陽向が足早に去った頃、結華はすでに別荘へ戻っていた。シャワーを浴び、高い襟の服に着替える。昨夜の痕を隠すためだ。

それから男のスーツを外のゴミ箱へ放り投げた。

一期一会。二度と会うこともない。

――初めてをあの男に渡したのは惜しい?

いいえ。得をしたのは、あちらのほうだ。

結華は眉を寄せ、どうやってこの縁談を潰すかを考え始めた。けれど答えが出ないうちに、玄関の鍵が回る音がした。

九条陽向が入ってくる。

旗袍姿の結華は腰の細さと曲線が際立ち、今までにない艶をまとっていた。

九条陽向は、居場所を伝えてきた友人が役立たずだったと内心で罵りながら、同時に、勢いで叔父の部屋へ突撃しなかった自分を褒めた。昨夜は酒に溺れ、女と遊び呆けて結華をすっぽかした――さすがに後ろめたい。

「結華、昨日は――道がさ、すげぇ混んでて」

媚びた笑みで近づき、細い腰に手を回そうとする。

「渋滞が一晩中?」

結華は身をずらし、二人の間に見えない線を引いた。表情は冷えたまま、誇り高い。

「そんなわけねぇだろ」

九条陽向はへらへらしながら、ポケットからベルベットの小箱を取り出し、宝物みたいに差し出す。

「プレゼント取りに行ってたんだよ。開けてみ?」

結華は一瞥もしない。

九条陽向は気にせず自分で蓋を開け、きらりと光る品を見せた。

「ピンクダイヤ好きだろ? これ、探すの大変だったんだ。つけてみる?」

チェーンを取り出し、彼女の胸元へ伸ばす。

結華の脳裏に、昨夜見たスマホ画面の文字が蘇る。身体が強張り、胃の奥がせり上がった。近づかれるだけで吐き気がする。

――でも、今はまだ。

騒げば藪蛇。狙うのは最初から“一撃必殺”だけ。

結華は指先でネックレスを受け取り、怒っているふりで釘を刺す。

「次また私の誕生日会をすっぽかしたら、ただじゃ済まないから」

警告の皮を被った甘え。九条陽向は「遅刻で怒ってるだけか」と安堵し、深く考えなかった。結華が受け取った――それだけで十分だ。

「明日の夜、九条家の大事な宴会がある。俺と一緒に来いよ」

九条陽向が身を乗り出し、目を閉じて、欲深く息を吸う。

結華は座ったまま、答えない。

付き合い始めた頃、九条陽向は「関係はまだ公にしない」と言った。家が大きいほど厄介ごとも多い。結華は彼なりの配慮だと思い、同意した。

だから三年間、二人の関係を知るのは互いの親友だけだった。

突然の“宴会に連れて行く”発言。家族に紹介するつもりなのか。

「結華、なんか今日……前と違う」

九条陽向は返事を待たず、陶酔したように続ける。

「前よりずっと、色っぽい」

結華は背筋を張り、笑みが不自然に引きつった。

「前から言ってるでしょ。お酒は身体に悪い。昨日――」

もし「誕生日に飲んで遊んでたから遅れた」と知られたら、どうなるか。九条陽向はそれを想像し、咳払いして無邪気な顔を作った。

「飲んでねぇよ」

手を取ろうとして、結華はさりげなく避ける。

九条陽向は、女は拗ねるほど愛している証拠だと信じていた。だから辛抱強く甘やかす。

「ほら、機嫌直せって。明日の宴会で、お前の立場、正式に公開してやるから」

「……H市中に知らせたいんだろ? お前が俺の女だって」

まるで“光栄だろ”と言わんばかりの口ぶり。今となっては滑稽だった。

結華は衝動を噛み殺す。苛立ちを誤魔化すように「体調が悪いかも」と口にしかけた、その瞬間――九条陽向のスマホが鳴った。

画面を見た途端、九条陽向は立ち上がり、玄関へ向かう。

急用ができた、明日は車を回す――そう言いながら、最後まで言い切る前に姿を消した。

九条陽向が去ってから、結華はようやく下腹の痛みに気づく。トイレで確認すると、出血していた。

呆然としながらも、昨夜の男の無茶さを呪い、急いで車を飛ばして病院へ。

検査を終えると、医師は書類を見ながら、諭すように言った。

「若いからって、私生活は節度が大事ですよ。やりすぎはだめです」

さらに、付き添いがいないことに不満げな顔になる。

「彼氏は? どうして一緒に来ないんです」

「まったく……男は自分の欲ばかりで、相手を労わらないのは良くありません。ちゃんと叱りなさい」

結華は冷静を装っていたが、さすがに耐えきれない。恥ずかしさで消えてしまいたくて、咄嗟に嘘が口をついた。

「し、新婚で……その、初めてで……ずっと待ってて……」

声がどんどん小さくなる。

「……反省してます。帰ったら言います」

言い終えるなり、結華は扉を開けて、逃げるように廊下へ――。

だが、扉の外にはいつの間にか誰かが立っていた。

結華は気づかず、その胸にぶつかってしまう。

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