第3章
「……すみません」
柚木結華はこれ以上ないほど頭を下げ、脇の下にでも潜り込みたいくらい真っ赤になったまま、逃げるように立ち去った。
九条獅堂は、女が一度も顔を上げずに走り去る背中を見送り、腹立たしさと可笑しさが同時に湧いた。
「獅堂、何ぼーっとしてんだ! 早く入れよ。さっき患者が来て時間押したんだ」
林田朔也が診察室から出てきて、人混みの中でもひときわ目立つ九条獅堂に声をかける。
「……その前に、ひとつ頼む」
獅堂は動かず、声を落として林田朔也の耳元へ囁いた。
聞き終えた林田朔也は、面白がるように口角を上げた。
「さっきの子は『やりすぎ』で来て、お前は『禁欲しすぎ』で来てるってわけか」
「友だちとして言っとくけど、他人に興味持ってる場合じゃないぞ。溜め込みすぎると、そのうち使い物にならなくなる」
言い終えたところで、林田朔也はようやく何かに気づいたように顔色を変えた。
「……待て。さっきの患者、お前と何の関係だよ。なんであんな細かく聞くんだ?」
九条獅堂は終始、氷みたいな顔のまま淡々と答える。
「――お前が想像した通りだ」
「もっと大胆に想像してもいい」
一方、病院を出た柚木結華は、あれこれ振り回された挙げ句、ようやく別荘へ戻った。帰り道ずっと昨夜の男を頭から尻尾まで罵り倒していた。
あんな無茶な相手、誰が耐えられるというのか。
家に着くと、部屋にはいつの間にか新しいドレスが増えていたが、柚木結華は見向きもせず寝室へ入った。
物を与えることに、九条陽向は躊躇しない。
彼女が口にすれば、必ず応える。
昔はそれを「大事にされてる証」だと思っていた。今となっては、ただの誤魔化しにしか見えない。
翌日。陽向から一時間前に電話が入った。迎えの車が向かっている、と。
機嫌を損ねないように、甘い言葉まで添えてくる。
「結華、今日は九条家の人間がみんな揃ってて手が離せない。でも来たら、俺はお前だけ見てるから」
柚木結華は吐き気を押し殺し、通話を切った。
男は最低でも、晩餐会は別だ。
一流の場は、人脈を作る価値がある。
雪のように白いドレスに着替え、髪を簡単にまとめる。支度が整う頃、車が到着した。
会場には高級車がずらりと並び、九条陽向は道路脇で待ち構えていた。車を見るなり駆け寄り、扉を開け、肘を差し出す。
柚木結華は悟られたくなくて、そっと手を添えた。
「まず叔父さんに挨拶する。俺のプロジェクト、いくつも叔父さんの一声次第なんだ。今日は珍しく来てるから、ちゃんと好印象残してくれよ」
陽向は耳元で小声で言いながら歩き、周囲へ愛想よく挨拶をする。
だが他人の視線の大半は、隣の柚木結華へ吸い寄せられていた。
やがて静かな一角。九条獅堂が話を終えるのを待ち、陽向が近づく。
「叔父さん。こちら、俺の彼女の柚木結華です」
陽向は得意げに言う。
「結華、叔父さんに挨拶して」
「叔父さん、こんばんは」
柚木結華は素直に呼び、澄んだ表情で頭を下げた。声色も落ち着いていて、取り繕いの気配がない。
獅堂は深紫のスーツに、白いシャツのボタンを二つ外している。喉仏が言葉に合わせて上下した。
グラスを握る手に、ふっと力が入る。視線が二人の絡んだ腕へ滑り、顔が氷のように冷えた。
「……ああ」
それだけ言って、獅堂は陽向をまともに見もしないまま踵を返した。
陽向は呆然と背中を見送る。
――俺、何かしたか?
「お手洗いに行ってくる」
柚木結華は機を見て腕を外し、返事を待たずに歩き出した。
会場の顔ぶれを観察しながら、頭の中で接触すべき相手を並べる。戻ったら誰から声をかけるか――そんなことを考えつつ女子トイレに入った瞬間。
バン、と扉が閉まった。
振り向くと、深紫の矜持ある影。
柚木結華の警戒心が跳ね上がる。
「叔父さん、ここ女トイレです。間違えてます」
九条獅堂は口元を引きつらせ、余裕ぶった目で見下ろした。
叔父さん呼び、気に入ったのか。
「どうした。スカートめくった途端に他人扱いか?」
声には苛立ちが混じっている。
「あなた、知り合いでした?」
柚木結華は冷淡に返す。
「出てってください。九条陽向の叔父さんでも、女トイレに入る変態を庇う気はありません」
鏡に向き直り、身なりを整えようとした、その瞬間。腰に熱い手が回り、身体がふわりと浮いた。
洗面台の上に座らされ、男の腕が逃げ道を塞ぐ。
「思い出させてやる。俺が誰か」
「離して!」
柚木結華は台の上のスマホを手探りする。
だが発信する前に着信が鳴った。表示は九条陽向。
獅堂の目の奥で何かが切れる。
指先が引かれ、ビリッ、と布の裂ける音。
柚木結華の下腹に冷たい空気が触れた。
――何を、破いたの……?
「っ……あんた、何してるの!」
恥と怒りで声が上ずる。
獅堂は空いた手で軟膏を取り出し、ひらりと見せた。
「お前の薬、病院に置いてあった」
柚木結華は言葉を失う。羞恥が一気に込み上げ、反射的に蹴ろうとした。
だが足首を掴まれ、逃げられない。
獅堂の指に薬が取られる。
次の瞬間、その指がスカートの中へ滑り込んだ。
電流みたいな感覚が全身を駆け、柚木結華はびくりと震える。
獅堂は覗き込み、塗った場所にふっと息を吹きかけた。
「騒ぐな」
「薬、塗ってやってる」
獅堂の声は、いつの間にか掠れていた。
柚木結華の頭は真っ白だ。奥へ押し込まれた瞬間、理性が跳ね上がる。
「やめて、離して! 陽向から電話が……!」
「陽向?」
獅堂の表情が危うく歪む。
「親しげに呼ぶな」
罰するように指がさらに深く沈み、柚木結華は信じられないほど足を閉じた。声にならない呻きが喉元で砕ける。
「……っ、不可解すぎる……」
その時、外から陽向の声がした。
「結華? 中で話してる?」
柚木結華は慌てて唇を噛み、声を殺す。
「なんでそんなに長いんだ。出てこいよ」
「返事しないなら、入るぞ……!」
