第1章 浮気?
夕食のあと、娘がアニメを見たいと騒ぎ出した。
来栖琴音はリモコンを手にチャンネルを変えようとして――ふと、画面の端を横切った一瞬の映像に目を奪われる。
あの横顔。あのコート……。
間違いない。夫の川島治だ。
しかも、彼の腕の中には女がいた。女は正面を見せず、骨が抜けたみたいに男の胸へもたれかかっている。
番組は生放送のグルメ系。
そして夫は今ごろ会議中のはずだった。もし彼がこの番組に映っているなら――つまり、嘘をついている。
胸がざわつき、呼吸が浅くなる。
……まさか。
浮気?
「ママ、アニメ! アニメ見たい! はやくアニメのチャンネル!」
娘の声に、琴音は現実へ引き戻された。画面は琴音がよく見る食べ歩き配信で、気づけば映像は厨房へ切り替わっている。
でも、あの店は知っている。数日前、川島治とデートで行ったばかりだ。雰囲気のいいレストラン。
「月乃ちゃん、いい子でアニメ見てて。ママ、ちょっと用事」
娘を落ち着かせ、琴音は寝室へ戻った。自分でもわかるほど顔色が悪い。
見間違いであってほしい。
ビデオ通話をかける。甲高い呼び出し音がいつまでも続き、心がずるずる沈んでいく。
本当に、他の女とデートしてるの……?
出て。お願い、出て――!
崩れ落ちそうになったその瞬間、ようやく接続され、カメラがぶれる。
けれど映ったのは川島治ではなかった。
「もしもし、琴音さん。川島社長をお探しですか?」
琴音は固まった。
「野村さん? どうしてあなたが……治は?」
野村は川島治の秘書だ。もともと琴音が採用し、仕事が丁寧で立ち回りも上手かったから、会社を離れる前にわざわざ治のそばへ付けた人間。
元上司相手でも、野村はきっちりとした口調で返す。
「琴音さん、川島社長は会議中でして、今はお電話に出られません。会議が終わりましたら折り返すようお伝えいたします」
琴音はうなずいた。治は会議のとき携帯を持ち込まない癖がある。
画面の向こうを目を凝らして見る。野村の背後の景色が会社のそれだと確認できて、ようやく息を吐いた。
「わかった。終わったら早めに帰ってくるように言って」
通話を切った瞬間、琴音は盛大に後悔した。
やっぱり、私の見間違い……?
川島治は誰もが褒めるいい夫だ。
顔はいい、才能もある。琴音と娘への甘やかしぶりは、むしろ過保護なくらい。
そんな男が、浮気なんてする?
――夜八時。
娘を風呂に入れていると、川島治からビデオ通話が入った。
出ると、画面に彼の整った顔。穏やかで上品な声が響く。
「ごめん、さっき会議で携帯置いててさ。野村が、君が電話したって」
「パパだ!」
月乃が湯船の中でぱしゃぱしゃ水を叩いてはしゃぐ。
琴音は片手でスマホを持ち、もう片方で娘を制しつつ、もう一度画面を見る。視線がふと夫の服へ落ちた。
「……あなた、着替えたの?」
今朝、家を出たときは琴音が用意したコートを着ていたはずだ。
それを聞いた治は、少し不満そうに口を尖らせる。
「野村がさ、ドジってコーヒーこぼしたんだよ。君が休憩室に替えを置いとけって言ってくれて助かった。じゃなきゃ汚れたまま客先に出るところだった」
琴音は目を細め、自然に追撃する。
「客先に会ったなら、食事に誘わなかったの?」
「相手が奥さんと結婚記念日だって。次回にした」
答えたあと、治は首をかしげる。
「……ねえ、どうしたの?」
「ううん、何でもない」
琴音はすぐ話題を変えた。
「いつ帰ってくる?」
「すぐ」
画面越しの目に、確かな愛情が宿っている。こんな目を、他の女に向けるとは思えない。
じっと見つめていると、治が悪戯っぽく笑った。
「なに、今日一日会えなくて寂しかった?」
これ以上甘いことを言われたら心がもたない。琴音は慌てて遮る。
「運転気をつけて。切るよ!」
治はすぐ帰宅した。玄関で上着を脱ぐなり、琴音と月乃に軽くキスを落とし、琴音の手から絵本を受け取る。
「君、今日は疲れたろ。先にお風呂入っておいで。俺が月乃に読み聞かせする。月乃、いい?」
「うん!」
琴音は子ども部屋を出た。淡い灯りが治の肩を柔らかく照らし、家の中が静かで温かい。
頭を軽く振る。
……琴音、琴音。こんな家庭的で優しい男が浮気するわけない。
あのコートだって高いけれど、別に特注品じゃない。たまたま似たものだっただけかもしれない。
それに、野村が自分のビデオ通話を受けたということは、治の携帯がそこにあったということ。二人は一緒にいた。
疑う理由なんて、もうない。
風呂から上がると、月乃はすでに寝かしつけられていた。
「あなた、上着……洗う?」
ソファにかけてあった二着を手に取る。治が着て帰ったスーツと、コーヒーをこぼしたというコート。
「いい」
寝室へ行ったはずの治が引き返してきて、琴音の手からコートを抜き取った。
「それは洗わなくていい。野村がもうクリーニング出したから」
琴音はうなずく。だから近づいてもコーヒーの匂いがしなかったのか。
けれど、ふと気になって口が勝手に動いた。
「……ねえ。あなたの服、なんで女物の香水の匂いがするの? 誰の?」
治は笑ってからかう。
「また嫉妬? 君はすぐ妄想するんだから」
そう言いながら抱き寄せ、手は遠慮なく琴音の体を探る。
家庭に入って何年も経つのに、琴音は体型を崩していなかった。会社が軌道に乗ってからは、自分の手入れにも手間を惜しまなかった。
だらしない女ではない。むしろ魅力的だ。専業主婦でも、女としての艶は失っていない。
だからこそ、信じたくなかった。
こんな綺麗な女を家に置いて、外でつまみ食いなんて――。
けれど、万が一はある。
「……離して」
治が平然としているのが、逆に腹立たしい。琴音は眉を寄せた。
「野村が言ってた。今日、会社で他の女と接触してないって。だったら説明して。香水は、どこから?」
琴音は大きな瞳で夫を見据える。
川島治は、見ただけで忘れられないタイプの男前だ。琴音が惹かれたのも、結局この顔から始まった。
彼はわざとらしく口角を上げ、琴音が頬を膨らませるのを面白がっている。
だが、このままでは本気で怒らせると悟ったのか、すっと表情を改めた。
指先で琴音の鼻先を軽く弾き、甘やかすように囁く。
「焼きもち焼きだな」
腰に回した手に力を込め、柔らかな体を引き寄せると、素早く唇にキスを落とした。
「ねえ、琴音。……この匂い、どこかで嗅いだことない?」
