第2章 後ろ姿の写真
来栖琴音が訝しげな顔をすると、川島治は続けた。
「千晶だよ。会社出たあと、ついでに家まで送った」
――千晶。
確かに彼女は、香りのきつい香水が好きだ。
それに、車に乗ると必ず川島治の助手席に座りたがる。
来栖琴音が彼女を嫌う理由のひとつでもあった。
千晶――本名は川島千晶。川島治の妹だ。
子どもの頃に心臓が弱く、移植手術を受けたことがあるらしい。だから川島家は、腫れ物に触るみたいに大事に大事に育ててきた。
昔、川島家が貧しかった頃でさえ溺愛していたのに、今は来栖琴音が立ち上げた会社のおかげで暮らし向きまで一変した。言ってしまえば、望むものは何でも手に入る。
千晶が住んでいる新居も、全額で買ってやったものだ。
毎月の生活費だって川島治持ち。
服、靴、バッグ、アクセサリー……そんなものまで買い与えていることを、来栖琴音は知っていた。
来栖琴音はケチではない。夫が家族に尽くすこと自体、反対するつもりもない。
妹が病弱なら兄が面倒を見るのも理解できる。
けれど――川島千晶は、感謝を知らない。
怠けてばかりのくせに、川島治の寵愛を盾にして、義姉である来栖琴音に偉そうに指図してくるのだ。
千晶の名が出た瞬間、琴音の愚痴は止まらなくなった。
「ついで? どこがついでなのよ。あの子、新市街に住んでるでしょう。ここから車で一時間よ」
「琴音、女の子だし。そうじゃなくても、兄として安全に送る義務があるだろ。……な?」
「どこがよ。二十過ぎた大人でしょ? 働きもしないでふらふらして、よく平気で兄に送迎させるわね」
こんなことを当然みたいにやるのは川島治くらいだ。普通はここまで甘やかさない。
「まだ子どもみたいなもんだしさ。君も義姉として、もっと言ってやって」
「私の言うこと、聞くと思ってる?」
琴音の苛立ちが増していくのを見て、川島治は少しだけ距離を取った。声をやわらかくして宥める。
「はいはい、怒らない。俺、シャワー浴びてくる。……最近してないし、もう我慢できない」
千晶のことで夫と喧嘩したくはない。
琴音の視線は、夫の色気のある喉仏へ吸い寄せられ――情けないほど正直に、ごくりと唾を飲み込んだ。
小悪魔みたいに笑って促す。
「……早く行って」
自分の夫は、顔だけじゃない。身体まで反則だ。
川島治はさっと洗い終え、腰にタオルだけ巻いて出てきた。
その姿を見た瞬間、来栖琴音は改めて自分が筋金入りの顔フェチだと痛感する。
「琴音、お待たせ」
今日の川島治はやけに情熱的で、琴音を押し倒してキスを重ねた。
唇から鎖骨へ――そこからさらに。
琴音は息が上がり、甘い声が漏れる。
「旦那さん……お願い……入って……」
大きな手が白い肌をなぞって火を点け、口づけと囁きが交互に降る。
「琴音、愛してる」
体がふにゃりと溶けて、言葉がほどけた。
「……わたしも……愛してる……」
二人は夢中で乱れた。
頬が上気したまま、琴音は川島治の腕枕に頭を預ける。指先は勝手に夫の胸に円を描いていた。
そして、ふと思いつく。
「ねえ、旦那さん。引っ越さない?」
川島治は彼女の手を押さえ、怪訝そうに眉を寄せた。
「なんで? ここ、住みやすいだろ」
琴音は唇を尖らせ、不満げに言う。
「月乃、あと一年で小学校よ。名門のCEAスクールに入れたいの。スタートで差がつくんだから。今の私たちならできるでしょ? 月乃は私たちのたった一人の子なんだよ。最高の学校に通わせたいって思わない?」
CEAスクールは、J市でも全国でもトップクラスの小学校だ。少しでも余裕のある家庭は皆、狙っている。琴音だって例外じゃない。
川島治が黙ったままなのを見て、琴音はむっとした。
「千晶の家は買ってあげるのに、自分の娘はダメなの?」
「いいに決まってる」
「じゃあ新市街に引っ越す。調べたの。新市街にCEAの学区に入るエリアがあるのよ。住民票を一年早く移せば間に合う。学校にも近くなるし、送り迎えだって楽。……あなたが千晶を送るのも、ついでになるし」
今の家は結婚前に買った2LDKで古い。しかも近くにいい学校がない。
以前は、家族が仲良くいられればどこでもいいと思っていた。けれど進学が迫れば、母親として考えないわけにはいかない。
「わかった。引っ越そう。俺が物件当たってみる。見に行って、君が気に入ったところにしよう」
大きな家。新しい暮らし。
それを想像すると、妙に興奮して眠れなくなる。
隣で深く眠る夫をちらりと見て、琴音は自分を戒めた。
――もう、くだらない疑いはやめよう。
そう思って電気を消そうとしたとき、枕元のスマホがピコンと鳴った。
親友の伊藤心優から、写真が一枚届く。
背景は、琴音が美食配信で見た、あのレストランだった。
夫を起こさないように、琴音はそっと起きてリビングへ出る。
すぐに電話をかけると、心優は秒で出た。
相手が何か言う前に、琴音が先に問う。
「……その写真、どこで手に入れたの?」
受話器の向こうで、心優が驚いた声を上げる。
「写真一枚送っただけで、もう分かるの? しかも電話まで。琴音、やっぱり思った? この背中、川島治に見えるって」
琴音はすぐに答えられなかった。
さっきまで、治を信じようと決めたばかりだったのに。最も信頼している親友が、似ている写真を送ってくる。
自分が見間違えることはあっても、心優まで見間違える?
伊藤心優は、J市チャンネルの有名司会者だ。人の顔を見誤るようなタイプじゃない。
けれど背中だけで、夫が嘘をつき浮気していると断定していいのか。
信じたい。けれど信じ切れない。
琴音はまた、信と疑いのあいだに沈んだ。
沈黙を察して、心優は少し声を落とす。
「琴音、焦らないで。この写真、私もSNSで見ただけ。本人かどうかは断定できないよ。送ったのはただ、警戒してほしくて。家にいる時間が長いと、男の甘い言葉を信じやすいから」
慰めは、逆に胸を詰まらせた。
来栖琴音と川島治は大学の同級生。新入生歓迎会で、琴音が一目惚れした。
その後、治は派手に口説き落とし、家族の反対も友人の忠告も押し切って、大三のとき交際を始めた。
卒業後、琴音は会社を立ち上げ、治は彼女と一緒に育てた。寝る間も惜しんで働き、二年でようやく軌道に乗る。
二人は結婚し、やがて月乃が生まれた。
それから琴音は家庭へ戻り、会社は治に任せた。
何年も、甘く穏やかで、喧嘩ひとつない。
だから信じたくない。夫が裏切るなんて。
でも――写真の中で、女の腰を抱いているあの男は、本当に川島治じゃないの?
