第4章 異常

来栖琴音は、ためらっていた。

親友に隠れて真相を追ってきた。なのに、いざ真実が手の届くところまで来ると、足がすくむ。

もし撮れていたら――写真の中で別の女を抱いている男は、他人か、それとも川島治か。

そのとき自分は、どうする?

「琴音、何考えてるの? どうして黙ってるの?」

受話器の向こうから、親友の声がする。

琴音は夫を愛している。けれど、目に砂を入れたまま生きることはできない。はっきりさせなきゃいけないんだ。

「同僚に聞いて。正面の写真があるなら、すぐ私に送って」

「了解」

少し重くなった空気を察して、伊藤心優がわざと明るい調子に切り替えた。

「ねえ琴音。いつ仕事に戻るの? 月乃、もう五歳だよ。そろそろ考えなきゃ。あんたが家に入って五年、私も五年ずっと心配してんの!」

琴音は思わず笑った。

「何を心配してるの」

「五年も専業主婦やってたら、心配するに決まってるでしょ」

「言い方!」

罵る元気があるのを確認したのか、心優は逆にほっとしたように続ける。

「はいはい。で、答え。いつ職場復帰するの? 私はあんたが無双するの、ずっと待ってるんだけど」

「川島治と相談してみる」

「相談はいいけど、また言いくるめられて終わりとかやめてよ」

「川島治はそんなことしないよ。心配して、守って、甘やかしてくれるだけ」

「出た、主婦脳。相当しっかり飼い慣らされてる」

心優は小さく舌打ちして、釘を刺す。

「写真の件はまだ確定じゃないんだから。恋愛脳は封印」

「わかってる。私は川島治を信じ――」

「信じ切るのが危ないの。男なんてさ、特に金があって顔もいい男、浮気しない方が珍しい」

琴音は眉をひそめる。

「恋愛したことないくせに、なんでわかるの」

一拍の間があって、心優が言い返した。

「男女の汚い話なら、あんたみたいに『川島治が~』って連呼してる女より、私の方がよっぽど冷静」

「あなた、川島治に偏見ある」

「来栖琴音、心痛まないわけ? 偏見持つのは、あんたが心配だからでしょ」

「はいはい。世界が私を裏切っても、あなたは裏切らないってやつね」

「適当言うな」

心優は息をついて、真面目な声に落とす。

「琴音、昔のあんた覚えてる? 商学部の才女。あんたが身につけたもの、埋もれさせるなよ。家を回すのはあんただけの責任じゃない。仕事しても家は守れる。旦那と子ども中心でぐるぐるしてたら、自分がなくなる。川島治の付属品になる」

一気に言われ、琴音は返す言葉を失った。

「……わかってる」

その返事に、心優は苛立ちを隠せない。

「わかってるなら変えな! このままじゃ社会とズレていく。会社だって全部、川島治が回してる。今のあいつは金も顔もある。寄ってくる女なんていくらでもいる。あんたが会社に戻って目を光らせないと、絶対いつかやらかす」

「そこまでじゃ……」琴音は、まだ夫を信じたかった。

心優は食い下がる。

「そこまでだよ。いい? 今夜言いな。『私、会社に戻る』って!」

その熱に違和感を覚え、琴音が言い返そうとした瞬間――。

ガチャリ、とドアが開いた。

川島治が顔を覗かせる。

「琴音、飯できたぞ」

電話の向こうで、心優の声が露骨に不機嫌になる。

「……ちゃんと考えなよ。川島治を信じすぎないで。ご飯行って」

挨拶をする間もなく、通話はぷつりと切れた。

「誰から?」

川島治が歩み寄り、妻を腕の中に引き寄せて、耳元で囁くように尋ねる。

琴音は耳が弱い。抗えず、正直に答えてしまう。

「伊藤心優」

「……あいつか。俺の悪口でも言ってた?」

川島治がそう言うのも無理はない。大学の頃から、心優は二人の関係をずっと良く思っていなかった。

それでも今は、結婚して何年も経ち、子どもも五歳だ。

夫と親友――これ以上こじらせたくなくて、琴音は適当に取り繕う。

「悪口じゃないよ。仕事で嫌なことがあって、愚痴ってただけ」

川島治は眉を寄せる。

「琴音、君は聞きすぎない方がいい。あいつの界隈は荒れてる。君が悪い影響受けたら困る」

琴音は夫を見上げ、探るように言った。

「私は悪くならないよ。でも……心優がね。『男は金持つと必ず悪くなる。例外なし』って。あなたも、そうなる?」

川島治は即答した。

「ならない。俺は例外だ。金があっても悪くならない。ずっと君を愛してる」

深い声のまま身を屈め、唇を塞ぐ。ちゅ、ちゅ、と甘く奪われて、口元が濡れたところで――最後に、支配するみたいに囁いた。

「もう二度と俺を疑うな」

夕食のあと、川島千晶がまた送迎をねだった。

琴音は不満を隠さない。

「タクシーで帰れないの? 往復二時間だよ。お兄さん休ませてあげなよ」

千晶は、意味ありげな笑みを浮かべてさらりと言った。

「遅くなったら、うち泊まれば? ベッド広いしさ。お兄ちゃんがどれだけ暴れても、私は寝られるから平気~」

琴音は眠りが浅い。物音ひとつで目が覚める。

そんなことまで千晶に話していたのか、と嫌悪が湧いた。なにより、その言い方が妙に含みを持って聞こえ、嫌な想像が勝手に膨らむ。

川島治が琴音を見た。許可を求める目。

千晶は兄の腕をぶんぶん揺らして甘える。

「ねえ、送ってよ~! お兄ちゃん!」

苛立ちが限界で、琴音は手を振った。

「私を見るな。送るなら送れば」

「じゃ、片付け――」

川島治が言い終える前に、千晶が食い気味に遮る。

「ありがとう、義姉さん! お兄ちゃん、行こ!」

そのまま兄を押すようにして玄関へ向かい、琴音の不機嫌など見えないふり。

わざと散らかされた食卓を見て、琴音は鋭く呼び止めた。

「自分で散らかしたんでしょ。片付けてから行きなさい」

千晶がむっとする。

「ちょっとくらい手伝えば? 兄が稼いで養ってあげて、あなたは家で専業主婦なんでしょ。このくらいできないの?」

琴音は冷たく返した。

「私が家にいるのは夫と子どものため。あなたの世話をする義務はない」

「兄が甘やかしすぎなんだよ」

川島治が千晶の腕を外し、苦笑いしながら戻ってくる。

「琴音、怒らないで。千晶、片付けろ」

二人で食卓とキッチンを片付け終えると、川島治が琴音に軽くキスを落とし、愛おしそうに言った。

「眠くなったら先に寝てて。千晶送ったらすぐ帰る」

玄関の鍵が閉まる音がしても、琴音の胸のざわめきは消えなかった。

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