第5章 証拠は確かなり

娘を寝かしつけてから、来栖琴音はソファに腰を下ろし、伊藤心優に言われた言葉の数々を反芻していた。

娘がまだ小さかった頃は、面倒を見る人もいない。だから琴音は、自分の手で築き上げた仕事を手放し、会社の運営を旦那さんに任せ、家庭に全力を注いだ。

けれど今、娘はもうすぐ小学生。ずっと望んできた二人目もなかなか授からない。なら、職場に戻るのも悪くない。

川島治の負担を軽くできるし、自分だって張り合いが出る。家で暇を持て余して、くだらない想像に溺れずに済む。

それに何より――自分の力を、このまま埋もれさせたくない。もっと稼がなければ。

家を支えるのは、そんなに簡単じゃない。

そんなことを考えているうちに、琴音はうっかりソファで眠ってしまった。

目を覚ますと、首が固まっている。寝違えたらしい。少し動かすだけでズキンと痛みが走った。

痛みをこらえながら寝室へ向かう。

――やっぱり、治は帰っていない。

川島千晶を送った夜は、そのまま外泊が当たり前になっている。

もうすぐ月乃も起きる。仕方なく治に電話をかけたが、電源が切れている表示が出るだけだった。

琴音は舌打ちしそうになるのを飲み込み、川島千晶へかけ直す。コールが長く続き、ようやく繋がった。

「……ねえ。お兄さんは? 代わって」

「どうしたの?」

受話器の向こうの声が、妙に媚びて甘ったるい。

ぞわり、と鳥肌が立つ。首の痛みも相まって、琴音の苛立ちは一気に跳ね上がった。

「代われって言ってる!」

「朝っぱらから何よ……。お兄ちゃん、まだ起きてない。用があるなら言って、伝えとくから!」

その言い草が、まるで治を自分のものみたいに抱え込んでいるみたいで、胸がむかつく。琴音は早口で言い捨てた。

「寝違えた。首が動かない。帰ってきて、月乃の送迎して」

「……厄介者!」

小さく吐き捨てるみたいに呟いて、ぶつり。通話が切れた。

――厄介者?

たったその一言が、胸の奥にべったり張り付く。

三十分ほどして、治から折り返しが来た。

「琴音、動くな。今すぐ帰る!」

治は帰宅すると、まず月乃を学校へ送り、その足で琴音を病院へ連れていった。

医師は「大したことはない」と言い、冷やしてから温めれば治まると告げる。

ベッドに凭れた琴音は、治の行き届いた世話を受けながらも、どうしても朝の「厄介者」が引っかかってしまい、つい口にした。

「ごめんね……いろいろさせちゃって」

治は即座に首を振る。

「何言ってる。君は俺の妻だし、月乃は俺の娘だ。世話するのは当たり前だろ」

胸がきゅっと締めつけられ、琴音は思わず恋しげに夫を見つめる。

「……ありがとう、旦那さん」

「謝るのも礼を言うのも禁止。俺は旦那さんなんだから。旦那さんが妻を守るのは当然」

本当に、川島治は性格がいい。

どんな時でも、琴音の欲しい言葉を迷いなく差し出してくる。気遣って、慰めて、安心させる。だから、頼ってしまう。

治は額にそっとキスを落とし、氷を包んだタオルの端を琴音に握らせた。声は柔らかい。

「琴音、今日は家で横になって休め。俺はシャワー浴びて、何か食べさせる。午後は会社に行くけど、仕事終わったら月乃を迎えに行く」

医師の言う通り、午後には痛みがだいぶ引いた。

じっとしていられず、琴音は洗濯機の中に朝の着替えが残っているのを見つけた。ついでに、昨日治が着ていた白いシャツも手洗いしようと取り出して――。

その瞬間、世界が止まった。

白いシャツの襟元、うなじのあたりに、鮮やかな口紅の跡がいくつも付いていた。

胸を矢で射抜かれたみたいに痛い。足元がぐらつき、立っていられない。

琴音は震える手で、そのシャツを洗い場へ叩きつけた。

この瞬間、ようやく理解した。

川島治は――本当に浮気している。

配信の映像も、背中の写真も、本物だった。嘘だったのは、治の言葉だけ。

あれほど信じたのに。昨夜だって、愛し合いながら未来の話までしたのに――裏切った。

琴音は力が抜けて、冷たい床へずるりと座り込む。底冷えする寒さが、四肢の奥まで染み込んでいく。

頭を抱える。息が詰まるほど心臓が痛いのに、脳裏には夫が他の女を抱く映像が、何度も何度も蘇った。

家のために捧げた。青春も、時間も、金も。

返ってきたのは、旦那さんの裏切り。

笑える。

来栖琴音、どうしてこんなところまで落ちたの?

――冷静になれ。

泣いて終わりじゃない。

川島治が浮気するなら、琴音は自分の会社を取り戻す。必ず代償を払わせる。

しばらくして、琴音はふらつく脚で立ち上がり、スマホで口紅跡を撮影した。

治から届いていた気遣いのメッセージが、滑稽で仕方ない。

伊藤心優とのトーク画面を開き、彼女が送ってくれた背中の写真も保存する。それから音声通話をかけた。

繋がるなり、心優がいつもの調子でからかってくる。

「この時間に電話? 川島治と相談できた? 職場復帰、OK出た?」

琴音は口元だけで笑った。

「まだ言ってない」

「ほらね。言ったでしょ、また川島治に言いくるめられるって」

心優が言い終えたところで、琴音の沈黙に気づいたのか、声が少し落ちる。

「……別のこと?」

「うん。写真、結果出た?」

受話器の向こうで、ガタン、と何かを落とした音がした。

「あっ……私、今すぐ聞いてくる!」

椅子を引く音。慌てた声。

「いったん切る! 待ってて!」

待つ時間は地獄だ。

琴音は手を止めず、川島千晶へ電話をかけた。

朝、自分が治に代われと言った時、千晶は歯切れが悪かった。最後には「伝える」と言っただけ。

今ならわかる。治はそもそも、千晶の家にいなかった可能性が高い。

コールの後、千晶が不機嫌に吐き捨てる。

「また何?」

琴音は深呼吸して、直球で問う。

「昨夜、お兄さんはあんたの家に泊まった?」

千晶は得意げに言う。

「当然でしょ」

「でも、あんたの家、ベッド一つしかない」

「……ソファで寝たらダメ?」

琴音はもう回りくどいのをやめた。

「嘘。彼腰が悪い。ソファじゃ寝られない」

千晶が逆ギレする。

「とにかく昨夜はうちにいた! じゃなきゃどこ? 道端? ねえ来栖琴音、また疑ってんの? 兄は外で必死に働いて、あなたにいい物食べさせて、いい物着せてるのに。いい加減落ち着いたら? 毎日疑ってばっか」

琴音は冷えた声で遮った。

「川島千晶。もう一回聞く。昨夜どこにいたの。言わないなら、あんたのカード全部止めさせる」

数秒の沈黙。

そして、急に現実的な声に変わる。

「……言えばいいんでしょ。確かにうちにはいなかった。でもどこ行ったかは知らない」

ぶつり。通話が切れた。

そのとき、琴音のスマホに、伊藤心優から写真が届いた。

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