第2章

 月曜の朝八時、私は北条設計事務所のガラス扉を押し開けた。

 始業時間より三十分も早く出社したのは、心を落ち着かせるためではない。戦いの準備をするためだ。昨夜の父の言葉が、毒のように一言一言、脳裏に響く。土地、計画……すべては最初から仕組まれていたのだ。私は深く息を吸い込んだ。今日、私は仕事をしに来たのではない。戦うためにここへ来たのだ。

 エレベーターのドアが開くと、数人の同僚が私を見て意味ありげな視線を交わし、示し合わせたように手元のスマートフォンに目を落とした。エレベーター内には、異様な沈黙が垂れ込める。

「昨夜の小林家での食事会、大変だったらしいわよ」

 女性社員の一人が、わざとらしく囁いた。

「シーッ、やめなって」

 もう一人がそれを制するような仕草を見せる。

 顔から火が出そうだった。婚約破棄の一件が社内中に知れ渡っているのは明らかだ。

 エレベーターが十二階で止まる。私は息を整え、外へ出た。

 だが、自分の席へ向かおうとした瞬間、足が止まった。凍りついたと言ってもいい。

 私のデスクが、消えていたのだ。

「佳奈さん……?」

 秘書の真希が、気まずそうな表情で近づいてくる。

「あなたの席は……地下一階に移ることになりました」

「地下一階?」

 耳を疑った。

「地下室ってこと?」

「はい、社長が……気分転換のために静かな環境が必要だろうと」真希は私の視線を避けた。「新しいオフィスエリアも、結構快適ですよ」

 頭に血が上った。地下室? あそこはただの倉庫じゃないか!

 私は達也を問い詰めようと振り返ったが、そこには会議室の入り口に立つ兄と、その傍らに寄り添う百合の姿があった。

「佳奈!」百合が甘ったるい笑みを浮かべて歩み寄ってくる。「昨夜のこと、聞いたわ……」

「黙って」

 私は冷たく言い放った。

「佳奈!」

 達也の声がオフィスエリア中に響き渡る。

「こっちへ来い」

 すべての視線が私に突き刺さる。私は奥歯を噛み締め、会議室へと歩を進めた。

 達也は書類を手に、プロジェクタースクリーンの前に立っていた。会議室には何人かの部門長が座っていて、達也の右隣の席に百合が腰を下ろしている。

 そこは本来、私の席だったはずだ。

「最近のお前の精神状態を考慮して」

 達也の口調は徹底してビジネスライクで、兄としての情など微塵も感じさせない。

「お前の抱えている全プロジェクトを、百合に引き継ぐことに決めた」

「はあ?」

 私は思わず飛び上がりそうになった。

「達也、正気なの? あれは私のプロジェクトよ!」

「『星崎市民文化センター』の改修案も含めてだ」

 達也は私の抗議など聞こえていないかのように続けた。

「今後は百合が引き継ぎ、より高いリターンが期待できる包括プランを実行に移す」

 あのプロジェクトは、母さんの最後の設計思想そのものだ。母さんがこの世界に残した贈り物なのに!

「達也、あれは母さんの……」

「母さんは三年前に死んだんだ、佳奈」

 達也の言葉が、氷のように冷たく心に突き刺さる。

「北条設計事務所に必要なのは現実的な商業価値だ。感傷的な判断ではない」

 絶妙なタイミングで百合が立ち上がった。その顔には、わざとらしいほど心配げな表情が張り付いている。

「佳奈、動揺するのも分かるわ。でも約束する、このプロジェクトは私が責任を持って進めるから。恵子叔母様のデザイン精神を大切に……」

「その安っぽい同情、やめてくれない?」

 私はもう感情を抑えきれなかった。

「あなたが何を企んでるか、私が気づいてないとでも?」

「佳奈!」

 達也が机を叩きつけた。

「いい加減にしろ! お前には感情の調整が必要だ。地下に行って、頭が冷えるまで単純作業でもしていろ!」

 会議室は水を打ったように静まり返った。全員が息を呑んでいる。

 室内を見渡す。誰もがこの見世物を楽しんでいるような目つきだ。これは突発的な決定ではない。周到に用意された、私への公開処刑なのだと悟った。

「……わかったわ」

 私は自分でも恐ろしくなるほど静かな声で言った。

「今日のこの出来事、すべて覚えておくから」

 私は踵を返し、会議室を出た。

 背後から、ひそひそ話が追いかけてくる。

「やっぱり嫉妬に狂ってるのね……」

「当てつけで結婚やめたって聞いたわよ。器が小さいわね」

「百合さんはあんなに優秀なのに。会社もこれでようやく希望が持てるわ」

 拳の関節が白くなるほど強く握りしめたが、私は決して振り返らなかった。

 奇妙な空気の中で、一日が過ぎていった。誰もが私を、まるで見世物を見るような目で見ている。私が完全に崩れ落ちる瞬間を、今か今かと待ち構えているかのようだった。

 午後六時。ほとんどの同僚はすでに退社していた。

 私は地下一階の「仮設オフィス」――改装された元倉庫――で、山のような雑務書類と向き合っていた。頭上の蛍光灯がチカチカと明滅し、耳障りな羽音のような音を立てている。

 怒りで目は充血していたが、それ以上に悔しさが込み上げてくる。

 その時、頭上から話し声が聞こえてきた。見上げると、真上にある会議室から通気ダクトを伝って声が漏れてきているのだ。

 私は音を立てないよう椅子に上がり、通気口に耳を寄せた。

「……ようやく恵子の古い建物を金に換えられるな。二千五百万なら妥当な額だ」

 父さんの声だ!

 心臓が止まるかと思った。母さんが設計した『星崎市民文化センター』の話をしている!

「あの文化センターの立地は一等地ですからね」

 達也の声が続く。

「住宅開発に回せば利益は三倍になる。大和不動産からも確約を取りました。来週には契約できます」

 全身の血が逆流するような感覚に襲われた。大和不動産? 母さんの文化センターを、大和不動産に売り払うつもりなの?

「佳奈はどうするんです?」達也が尋ねた。「もし気づかれたら……」

「気づきはせんよ」父の声は冷酷そのものだった。「来週手続きが終わってしまえば、知ったところでもう手遅れだ。それに、あいつは今、自分の感情の処理で手一杯だろうしな」

 二人の男が、心ない笑い声を上げる。

 私は震える手で口元を押さえた。溢れ出しそうな涙で視界が歪む。

 よくもそんなことを! あれは母さんのライフワークだった。地域への贈り物だったのに! 家賃に困っているアーティストたちのために作られた安息の地なのに!

 それをこの人たちは取り壊して、高級マンションを建てるつもりなの?

「お母さんの霊が見ていたら、怒り狂って成仏できないかもしれませんね」

 達也の言葉が耳に届く。

 もう我慢できなかった――涙が頬を伝い落ちる。

 私は唇を強く噛み、無理やり自分を落ち着かせた。今ここで泣き崩れている場合じゃない。なんとしてもこれを阻止する方法を見つけなければ。

 私は密かにオフィスビルを抜け出し、近くのカフェで深夜まで時間を潰した。さっき盗み聞きした会話を何度も頭の中で繰り返す。この取引を止めるための証拠を見つけなければならない。

 午後十一時。オフィスビルに残っているのは警備員だけだ。

 私は自分のキーカードを使って、母さんの元オフィスに忍び込んだ。母さんの死後、そこはずっと空室のままだった。達也は「追悼のため」と言っていたが、実際は片付けるのが面倒だっただけだろう。

 ブラインド越しに月明かりが差し込み、床にまだらな影を落としている。

 スマートフォンのライトを点け、母さんが残したファイルを慎重に探し始めた。

 一時間後。目につく場所はすべて探したが、何も見つからない。

 絶望して母さんの椅子に座り込むと、思わずこの見慣れた空間を見回してしまった。

 ここには母さんの生活の痕跡が残っている。目に優しいからと愛用していたデスクライト、壁に飾られた最初の設計プロジェクトの写真、本棚に整然と並べられた建築書……。

「お母さん、お母さんがここにいたら、どうする?」

 独り言がつい口をついて出た。その声は震え、涙が頬を濡らした。

 子供の頃、母さんがこの椅子で夜遅くまで仕事をしているのを、よく忍び込んで見ていたことを思い出す。母さんはいつも手を止め、私を抱きしめてこう言ってくれた。「佳奈、覚えておいて。建築はただの鉄とコンクリートじゃないの。人々の夢と希望を運ぶものなのよ」

 今、あの人たちが母さんの夢を壊そうとしている。それなのに私は、それを止める力を持たない。

 母さんが大切にしていたデスクライトに触れようと手を伸ばしたその時、肘が当たって本棚から建築用語辞典が落ちた。

 本が落ちたその拍子に、背後に隠されていた小さな金庫が露わになった。

 心臓が高鳴る。母さんに金庫があったなんて? まるで、今も密かに私を守ってくれているかのように……。

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