第3章

受話器の向こうが、数秒しんと静まった。

曾我教授は、国内の半導体分野における第一人者だ。退官後はいく人かの教え子を率い、最先端の研究プロジェクトに携わっている。技術的な難度は極めて高く、慢性的な人手不足が続いていた。

3年前、曾我教授は一度、林田柊に声をかけたことがある。チームに加わってほしい、と。

けれど当時の林田柊は、出産してまだ間もなかった。北斗の体も弱く、そばを離れられず、申し出を丁重に断るしかなかった。

「こっちへ来るつもりか?」

曾我教授の声に、すっと緊張が宿る。

「はい」

林田柊の声はかすかだった。だが、その芯は揺るがない。

「行きたいです」

曾我教授はしばらく黙り込んだ。やがて、いっそう厳しい口調で言う。

「柊くん、わかっているはずだ。我々のプロジェクトは機密案件だ。国や財団の支援も入っている。もし参加するなら、家庭との両立はまず無理だろう。普段の連絡すら、満足には取れなくなる」

「構いません」

林田柊は淡々と答えた。

「あの人たちは、気にしないので」

かすかな皮肉が、その言葉の奥に滲んでいた。

「よし!」

曾我教授の声がぱっと明るくなる。安堵と、感慨と、喜びが入り混じっていた。

「君が吹っ切れてくれて、先生は本当にうれしいよ。君の力なら、このプロジェクトに入ることで、業界をもう一段先へ押し上げられる」

「この数年、家庭のことで足止めは食っただろう。だが、君の土台が失われていないことくらい、先生にはわかっている。戻ってきて、もう一度しっかりやりなさい。まだ遅くない」

まだ遅くない。

その一言に、林田柊の鼻の奥がつんとした。

危うく、涙がこぼれそうになる。

自分は、もう誰にも必要とされていないわけじゃなかった。

少なくとも先生は、ずっと待っていてくれたのだ。

「ありがとうございます、先生」

どうにか声を乱さないよう整えながら、林田柊は尋ねる。

「私は、いつ伺えばいいですか?」

「身の回りを片づけなさい。1か月後、こちらから迎えを出す」

「わかりました」

通話を切ると、林田柊は行き交う車の流れを見つめ、深く息を吸い込んだ。

こんなふうに肩の荷が下りるのは、ここ数日で初めてだった。

――

白鳥空弥が子どもを連れて病院から帰宅したころには、もう夜も近かった。

相馬祈の症状は軽いアレルギー反応にすぎず、一晩の経過観察でほぼ問題なしと判断された。

それでも白鳥空弥はさらに一日付き添い、夜になってようやく北斗を連れて戻ってきたのだった。

玄関の扉を開ける。

リビングは、ひっそりと静まり返っていた。

灯りもない。

食事の匂いもしない。

ソファで帰りを待つ人影もない。

以前なら、ありえないことだった。

林田柊が家にいる日なら、必ず二人の帰りを待っていたからだ。

深夜になることもあった。それでもソファに座って本を読みながら待ち、鍵の音がすればすぐに立ち上がって、

「お腹、空いてない? 何か作ろうか」

そう声をかけてきた。

白鳥空弥は玄関先で二秒ほど立ち止まり、眉をひそめたが、何も言わなかった。

北斗はスリッパに履き替えると、ぱたぱたとリビングへ駆け込んだ。きょろきょろとあたりを見回し、林田柊の姿がないとわかると、顔に浮かんでいた怒りがふっと途切れる。

本当なら、帰ってきたら母親を問い詰めるつもりだった。

あんなひどいことをして、祈おばさんを入院させたのだから。

病院へ行ってちゃんと謝るまで、絶対に許さない。そう決めていた。

なのに、いない。

北斗は頬をふくらませたまま、どすんと食卓の椅子に腰を下ろした。

太田さんが慌てて夕食を運んでくる。

空腹だった北斗は、大好物の手羽先をひとつつかみ、そのまま口へ放り込んだ。

だが次の瞬間、ぺっと吐き出し、小さな顔をむっとさせる。

「ぺっ、ぺっ! これ、ママの味じゃない!」

白鳥空弥も、食卓に並んだどこか物足りない料理を見て、眉間の皺をいっそう深くした。

彼の記憶では、林田柊が家にいるかぎり、食事はいつも彼女の手料理だった。

自分と北斗の口に合うようにと、わざわざ一流の料理人に師事して料理まで学んだ。

どんな料理でも、一流ホテルのシェフ顔負けの出来栄えだった。

盛りつけひとつ取っても、目を見張るほど丁寧で美しかった。

脇に立つ太田さんが、困ったように口ごもる。

「今夜の夕飯は、私が作りました。奥さま、昨夜からずっとお戻りになっていなくて……。今朝、洗面所を片づけたときに、奥さまの洗面道具がなくなっているのに気づいたんです」

白鳥空弥はさらに眉を寄せた。

「なくなっていた?」

「はい……」

太田さんはおそるおそる彼の顔色をうかがう。

「それから、クローゼットのお洋服も何着か減っていました」

少し迷ったあと、探るように言葉を続けた。

「旦那さま……奥さま、お怒りになって家を出られたのでは……」

家を出た?

白鳥空弥は内心で失笑した。

結婚して6年、林田柊が腹を立てるところなど、一度も見たことがない。

自分がどれほど冷たく接しても、結婚記念日を忘れても、仕事の付き合いを理由に約束を反故にしても――彼女はいつだって、あの柔らかな笑みを浮かべてこう言った。

「大丈夫」

あんな女が、怒るはずがない。

まして家出など。

そう思うと、太田さんの心配が大げさに思えて、白鳥空弥は淡々と答えた。

「放っておけ。また出張だろう」

まるで気にも留めていなかった。

太田さんは何か言いたげに唇を動かしたものの、結局は何も言わず、静かに厨房へ戻っていった。

翌日。

白鳥空弥はいつも通り出社した。

執務室に入るなり、秘書がノックして入ってくる。

「白鳥社長、本日の書類です」

「机に置いてくれ」

秘書が分厚い書類の束を机に置く。その中には、昨日、林田柊が周防さんに託したあの書類も紛れていた。

退出しかけたところで、秘書はふと思い出したように足を止める。

「そういえば白鳥社長、奥さまが昨日、会社にいらっしゃっていました」

白鳥空弥は書類をめくる手を止めなかった。

林田柊が何をしに来たのか、訊こうともしない。

彼にとって彼女は、何かと理由をつけて自分の前に現れる存在だった。今さら珍しくもない。

追及する気配がないのを見て、秘書もそれ以上は口にしなかった。

本当は、林田柊が辞表を提出していたことも伝えるつもりだった。

だが、考え直した。言うだけ無駄だと思ったのだ。

林田柊が辞職?

そんな話、誰が信じるだろう。

あれほど白鳥社長に執着していた女が。

一日24時間でもそばに張りついていたがるような女が。

会社を辞めるはずがない。

どうせ夫婦喧嘩の勢いだ。

数日もすれば取り消すに決まっている。

秘書は余計なことは言わず、静かに部屋を出ていった。

一人になると、白鳥空弥はそのまま書類処理を始めた。

何枚か目を通したところで、ふいに昨日の相馬祈の言葉を思い出す。

東区にあるあの店のお粥が食べたい、と言っていた。今日、持っていくと約束したのだ。

スマホを手に取り、電話をかけようとした、そのとき。

先に着信音が鳴った。

「空弥……」

相馬祈の声は、今にも泣き出しそうだった。

「ちょっと具合が悪くて……」

白鳥空弥の眉がぴくりと寄る。

「待ってろ。すぐ行く」

通話を切るなり、彼は車のキーをつかんで足早に部屋を出た。

急ぎすぎた拍子に、机のいちばん上にあった一枚の書類がはらりと滑り、くずかごの中へ落ちる。

それは、林田柊の辞表と、離婚協議書だった。

――だが彼は、最後まで一度もそれに目を留めなかった。

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