第4章 誰も気に留めない

マンションへ戻って迎えた最初の夜、林田柊はようやくすべての警戒をほどいた。

誰かを待つ焦りもない。失うことを恐れて心をすり減らす苦しさもない。

額の傷はまだじくじくと痛み、胸の奥の鈍い痛みも消えてはいなかった。

それでも、あの氷みたいに冷えきった屋敷にいるよりは、ずっとましだった。

少なくとも今夜は、穏やかに目を閉じられる。

翌朝。

カーテンの隙間から差し込んだ陽射しにまぶたをくすぐられ、柊はゆっくり目を開けた。

見慣れない天井をぼんやり見上げ、一瞬だけ、自分がどこにいるのかわからなくなる。

手探りでスマホを取る。

画面は、驚くほどきれいだった。

着信はゼロ。

未読メッセージも、一件もない。

白鳥空弥からの連絡はなかった。

北斗からも。

まるで自分という人間が、あの家から消えてしまっても、誰ひとり気にも留めないみたいに。

――それでいい。

林田柊はかすかに口元を歪め、布団をはねのけて起き上がった。

身支度を済ませたあと、自分のためだけに簡単な麺を茹でた。

湯気の立つどんぶりをテーブルに運んだ、そのとき。

スマホが新着メールを告げる。

曾我教授からだった。

本文には、暗号化された圧縮ファイルが添付されている。

――柊くん、これはプロジェクト初期段階の研究資料だ。先に目を通しておいてくれ。わからないことがあれば、いつでも聞きなさい。

その一文を見た瞬間、柊の目がぱっと明るくなった。

結局、その麺は冷めきるまで放っておかれた。

ひと口も手をつけないまま。

それからの数日、林田柊は完全に資料の海へ沈み込んだ。

時間の感覚も忘れ、ほかの何もかもを頭の外へ追いやって、ひたすら文書を読み込む。

その間、白鳥家の人間からは誰ひとり連絡してこなかった。

林田柊は、まるであちらの世界から丸ごと忘れ去られたようだった。

一週間後。

整理した内容を曾我教授へ送り返し、柊はようやく外へ出る気になった。

気分転換も兼ねて、それから離婚協議書の件も片づけてしまいたかった。

あらかじめ周防弁護士と約束を取り、カフェで会うことになっている。

できるだけ早く話をまとめて、帝都へ向かう準備に支障を出したくなかった。

「林田様」

周防は書類を差し出しながら言った。

「ご希望どおりの内容でまとめてあります。ただ、財産分与については本当によろしいのですか。何も受け取らずに出られると。法律上は、夫婦共有財産の半分を請求できます。かなりの額になりますよ」

「結構です」

林田柊は首を横に振る。声は静かだった。

「自分のものだけで充分です」

白鳥空弥との結婚は、もともと自分が望んで押し通したものだ。

最後の最後まで金のことで揉めて、みっともなく終わりたくはなかった。

「承知しました」

周防はうなずき、それ以上は踏み込まない。

「この協議書は、白鳥さんが署名すればその時点で効力が生じます。もし署名を拒否された場合は、訴訟に移るしかありません」

「わかりました。ありがとうございます、周防先生」

「いえ」

カフェを出たとき、胸の奥にのしかかっていた大きな石が、ひとつ下りたような気がした。

そのまま柊は、あてもなくショッピングモールを歩いた。

新しい服でも買おうか――そんな気まぐれだった。

過去ときっぱり縁を切るための、小さな儀式みたいに。

レディースショップへ足を踏み入れた、その瞬間。

見覚えのある姿が視界に飛び込んできた。

少し離れた休憩スペースで、相馬祈がひとりの男ともみ合っている。

顔にはあからさまな苛立ちが浮かんでいた。

「だから、どうしたいのよ。もう終わったって言ってるでしょ!」

声は抑えているのに、いらだちだけは隠しきれていない。

男は白鳥空弥よりずいぶん若く見えた。

相馬祈の手首をつかんだまま、品のない笑みを浮かべる。

「終わった? 相馬祈、おまえ俺を何だと思ってんだよ。都合いいときはハニーって呼んどいて、金持ち見つけたら用済みか?」

「何言ってるのよ!」

相馬祈の顔色が変わる。

慌ててあたりを見回し――そこで、林田柊と目が合った。

その瞬間、相馬祈の表情がぴたりと凍る。

次いで男の手を乱暴に振りほどき、早足で柊のほうへやって来た。

「柊さん?」

みるみるうちに顔つきが変わる。

今にも泣き出しそうな、いじらしい顔。

「どうしてこんなところに? 空弥、あなたのことずっと捜してるのよ。もう気が気じゃないみたいで……」

あまりに鮮やかな変わり身に、柊はむしろ笑いそうになった。

「そう」

淡々と返す。

「私はそんな話、ひとつも知らないけれど」

相馬祈は一瞬、言葉に詰まった。

だがすぐに、柊が手にしている弁護士事務所の封筒に目を留める。

その視線がすっと変わった。

「柊さん、つらい気持ちはわかるわ。でも、家出なんて子どもっぽい真似はやめたほうがいいんじゃない?」

口調にはあからさまな優越感がにじむ。

「空弥は仕事で忙しいの。少しは分別を持って、これ以上あの人の足を引っ張らないであげて」

まるで家の女主人が、聞き分けのない子どもに言い聞かせるような口ぶりだった。

「足を引っ張る?」

林田柊は笑った。

一歩、前へ出る。

そのまま相馬祈の目をまっすぐ見据えた。

「相馬さん、ひとつお忘れのようだけど」

声は冷えていた。

「白鳥空弥の妻は、私よ。あなたに私の振る舞いをとやかく言われる筋合いはないわ」

相馬祈の顔から、さっと血の気が引いた。

「な……何を勝手なこと……!」

「勝手かどうかは、自分がいちばんよくわかってるでしょ」

柊の視線は彼女を越え、その先にいる男へと流れる。

「それに相馬さんも、なかなかお忙しそうね。白鳥空弥をつなぎ止めながら、別の男とも揉めてるなんて」

「あなた……!」

相馬祈はわなわなと震えた。

いつも従順で押せば引くと思っていた林田柊が、こんなふうに切り返してくるなど想像もしていなかったのだろう。

「まずはご自分の火の粉を払ったら?」

柊は冷ややかに言い放つ。

「欲張りすぎて、最後に何もかも失うほうが、よほど惨めだもの」

「何様のつもりよ!」

ついに相馬祈は完全に逆上した。

張りつけたような弱々しい仮面は剥がれ落ち、目を吊り上げたまま手を振り上げる。

そのまま柊の頬を打とうとした――。

だが、その手首は空中でぴたりと止められた。

「おっと、何してるの?」

明るく、どこか人を食ったような女の声が響く。

「こんな人前で平気で手を上げる気?」

柊が振り返る。

そこに立っていたのは、小寺清だった。

いつの間に来たのか、きっちりしたスーツ姿の清が眉を上げ、相馬祈の手首を軽々とつかんでいる。

「小寺清……! 放しなさいよ!」

相馬祈の目に、あからさまな警戒が走った。

「放せって?」

清はにこりと笑う。

そのくせ指先に、ぐっと力を込めた。

「痛っ……!」

相馬祈が悲鳴を上げる。顔色が真っ白になった。

清はそこでようやく手を離した。

まるで汚れたものでも触ったかのように、紙ナプキンを取り出して指先を丁寧に拭う。

それから相馬祈を上から下まで眺め、わざとらしくため息をついた。

「へえ、大層なお名前の相馬さんじゃない」

口調は軽いのに、目はまるで笑っていない。

「不倫相手のくせに、ずいぶん偉そうな顔ができるんだね。私の大事な子に手を出そうなんて、誰に許可もらったの?」

小寺清はA市でも名の知れた弁護士だ。

容赦のない物言いと、相手を逃がさない詰め方で知られている。

相馬祈に太刀打ちできる相手ではなかった。

「ち、違う……! 私はそんな……!」

手首を押さえながら、相馬祈は悔しさと恐怖で目を赤くする。

さっきまで彼女と揉めていた男は、空気の悪さを察したのか、とっくに姿を消していた。

「違う?」

清は鼻で笑った。

「必要なら、あんたがここ数年やってきたこと、ぜんぶ表に出してあげてもいいけど? 白鳥空弥との関係も含めて、他人の家庭を壊そうとした事実があるかどうか、私がきっちり整理してあげようか」

相馬祈の顔から、完全に色が消えた。

唇は震えるばかりで、言い返す言葉がひとつも出てこない。

小寺清が口だけでは済ませないことくらい、彼女にもわかったのだろう。

結局、林田柊をひと睨みするのが精いっぱいで、相馬祈は踵を返し、逃げるように走り去った。

「はあ、つまんない」

清は肩をすくめる。

「逃げ足だけは一人前」

そう言ってすぐ、今度は柊の手を取った。

さっきまでの刺々しさが嘘みたいに、顔いっぱいに心配を浮かべる。

「柊ちゃん、大丈夫?」

「何もされてない? あの女、ひどいこと言わなかった?」

畳みかけるように問いながら、眉を下げる。

「もう、ほんとに。こんなに我慢してたんなら、どうして私に言わなかったの。今日たまたま通りかからなかったら、またひとりで耐えてたでしょ」

親友が自分のために怒ってくれる。

その姿を見た瞬間、何日も張りつめていた林田柊の心の糸が、ぷつりとほどけた。

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