第5章 愚か者
鼻の奥がつんとして、林田柊の目はたちまち赤く染まった。
この何日も胸の底に溜め込んでいた悔しさも、冷えきった思いも、行き場のない絶望も――小寺清が自分のために啖呵を切ってくれた、その瞬間に、堰を切ったようにあふれ出したのだ。
「何泣いてんのよ!」
小寺清はティッシュを1枚引き抜くと、乱暴な手つきで彼女の涙をぐいっと拭った。口調は相変わらず荒いのに、その目には痛いほどのいたわりが滲んでいる。
「そんなクズ男のために、涙なんか1滴だってもったいないわ!」
「しゃんとしなさいよ! あんたは林田柊でしょ! T大じゃ知らない人がいない才媛だったのよ? あんたを追いかける男なんて、正門から西門まで列作れるくらいいたんだから!」
そう言って、小寺清は苛立たしげに彼女の額をつついた。
「それを白鳥空弥ひとりのために、こんなボロボロになって――ほんと、バカじゃないの!」
「離婚よ、離婚! こんな結婚、絶対に切るべき! 訴訟なら私がやってやる。あいつ、きっちり丸裸にしてやるから。1円だって得させないわ!」
矢継ぎ早に怒鳴られて、林田柊はぽかんと目を瞬かせた。けれど胸の奥に何日も澱のように溜まっていた重苦しさは、不思議なくらい薄れていた。
彼女は小寺清の手をそっと握り、首を横に振る。泣いたあとの掠れがまだ残る声で言った。
「清、私は大丈夫。離婚協議書はもう用意してあるの。何もいらない。ただ、早く終わらせたいだけ」
「はあ? 何言ってんのよ、あんた!」
小寺清は今にも飛び上がりそうな勢いで声を荒らげた。
「なんであいつらを得させなきゃいけないの! この6年、あんたがあの男とあの家のためにどれだけ尽くしたと思ってるの? あんたがいなきゃ、白鳥空弥の会社がここまで来れたわけないでしょ!」
「もう、終わったことだよ」
林田柊は静かに言った。そこにあったのは、これまでにないほど澄んだ、静かな諦観だった。
「私はもう、前を向きたいの」
その顔を見てしまえば、小寺清もそれ以上きつく責めることはできなかった。
小さくため息をつき、林田柊の腕を引いて脇のソファへ座らせる。
「……わかった。あんたが本気で吹っ切れたっていうなら、それでいいわ」
少し間を置いて、彼女はぶっきらぼうに続けた。
「で、これからどうすんの? 行くとこないなら、うち来なさいよ。住まわせてあげる。私が養ってあげるから」
胸の奥がじんわり温かくなった。
もう行き先は決まっている――そう答えかけた、そのとき。
バッグの中で、スマホが場違いなほど唐突に鳴り出した。
取り出して画面を見る。
表示されていたのは、『北斗』の2文字。
どくん、と心臓が大きく跳ねた。
もしかして、北斗が自分を恋しがって――そんな、ありえない期待が一瞬だけ胸をよぎる。ほとんど反射のように通話ボタンを押した。
「もしもし、北斗――」
言い終える前に、受話口の向こうから飛び込んできたのは、幼いのに鋭く尖った、怒りの声だった。
「なんで祈おばさんをいじめたの!? デパートでひどいこと言ったんでしょ!? 祈おばさん、帰ってきてからずっと泣いてるんだよ! 目も腫れちゃってる!」
林田柊の指先が、スマホを握ったまま、じわじわと強張っていく。
さっきまで少しだけ温もりを取り戻していた心が、また一瞬で冷え切った。
相馬祈が白鳥空弥と息子の前で、どんなふうに話をすり替えたのか。目に浮かぶようだった。
この2週間、寝る間も惜しんで仕事を詰めた。大雨の中を駆け、事故にまで遭って、それでも誕生日に間に合わせようとした。
なのに――最後に残ったのは、実の息子から向けられる、いちばん嫌いな悪者を見るような声だった。
「なんでそんなに意地悪なの!? 祈おばさんはあんなに優しいのに、なんで泣かせるの! パパも怒ってた! お前は話にならないって!」
「ぼく、ママなんか大っ嫌い! もう二度と会いたくない!」
泣きじゃくるようなその責め声は、研ぎ澄まされた刃のように、ひと言ひと言、母親としての最後の望みを削ぎ落としていった。
林田柊は唇を開いた。
けれど、何も出てこない。
説明するのか。
たった6歳で、もうすっかり他人の言葉を信じきってしまっている子に?
――信じるはずがない。
あの子の世界では、ママは悪い人で、祈おばさんは優しい人だ。
急に、全部がひどく空しく思えた。
おかしくて、やりきれなくて、力が抜ける。
胸の奥の見えない傷がまたぱっくり裂けて、息をするのさえ苦しい。
結局、彼女は何も言わなかった。
ただ黙って、通話を切った。
「柊ちゃん?」
真っ青になった彼女の顔を見て、小寺清が心配そうに覗き込む。
林田柊は小さく首を振り、泣くよりひどい笑みを無理に作った。
「大丈夫。ただ……もう、完全に諦めがついただけ」
その言葉が落ちた直後、またスマホが鳴った。
今度、画面に表示されていた名前は『白鳥空弥』。
その文字を見た瞬間、林田柊は胸の奥に乾いた嘲りが広がるのを感じた。
何の用だろう。
自分の大事な高嶺の花のために、問い詰めに来たのか。
それとも、今すぐ帰って相馬祈に頭を下げろと命じるつもりか。
どちらにせよ、もう聞く気はなかった。
林田柊は迷いなく通話を切った。
2秒と経たないうちに、また着信音が鳴る。
彼女はもう一度切り、今度はそのまま白鳥空弥の番号をブロックした。
世界が、すっと静かになる。
「よくやった!」
横で見ていた小寺清が胸のすくような顔で言い、スマホに向かって中指を立てた。
「こういうクズ男には、それで十分よ!」
林田柊はスマホの電源を落とし、立ち上がる。
「清、私、まだ用事があるから先に行くね」
「どこ行くのよ。送ってく」
「大丈夫。迎えが来るから」
そう言って笑った彼女の表情には、さっきまでなかった軽さが少しだけ戻っていた。何かをようやく下ろしたような、そんな笑みだった。
小寺清に別れを告げ、林田柊はショッピングモールを出る。
出発前に、曾我教授の助手からメッセージが届いていた。迎えの時間と場所、それから車種まできっちり記されている。
道路脇では、黒塗りのトヨタ・センチュリーが、すでに静かに待機していた。
窓がするりと下がり、運転席の中年男性が会釈する。
「林田さんでいらっしゃいますか。曾我教授のご指示で、お迎えに上がりました」
「はい。よろしくお願いします」
林田柊はドアを開け、車に乗り込んだ。
車は滑るように車列へ溶け込んでいく。
窓の外の街並みが、次々と後ろへ流れていった。まるで過去のあれこれを、まとめて遠くへ置き去りにしていくみたいに。
1時間後。
車は、ひと目で先進企業とわかる、鋭く洗練された外観のオフィスビルの前で止まった。
――林田グループ。
林田柊はその4文字を見上げ、深く息を吸う。そして迎えに来た男性のあとに続き、中へ足を踏み入れた。
「林田さん、会議室は最上階です。曾我教授たちはすでにお待ちです。今回のプロジェクトの提携先の代表者も到着されています」
歩きながら、案内役の男が説明する。
「わかりました」
短く答え、林田柊はその後ろについてエレベーターへ乗り込んだ。
今日の彼女は、上品なアイボリーのスーツを隙なく着こなしていた。長い髪はきっちり後ろでまとめ、淡いメイクで疲労の色を巧みに隠している。
憔悴は消えていない。
けれどそれ以上に、仕事の場に立つ人間の張り詰めた清潔さと、研ぎ澄まされた有能さが際立っていた。
エレベーターの扉が開く。
男は彼女を、広々とした会議室の前まで案内した。
扉が開かれる。
「曾我教授、皆様。こちらが以前お話ししていた、我々のチームの中核を担う技術者、林田柊さんです」
紹介の声とともに、会議室の中の視線が一斉に集まった。
林田柊は柔らかく微笑み、会釈する。
そのまま静かに、長い会議テーブルへ視線を走らせた。
そして――上座の脇にいる、見覚えのあるひとつの姿を捉えた瞬間。
彼女の口元の笑みが、すっと薄れた。
白鳥空弥もまた、こちらを見ていた。
おそらく別の打ち合わせを終えたばかりなのだろう。黒のスーツを隙なく着こなし、背筋は真っ直ぐで、相変わらず人目を引く気配をまとっている。
けれど、林田柊の姿を認めたその瞬間。
彼の顔にあった余裕も自信も、ぴたりと凍りついた。
目の奥に浮かんでいるのは、隠しようのない衝撃と困惑。
ほんの数日前まで、自分のひと言で沈み込み、息子に突き飛ばされて床に倒れても、ただ黙って血を流していた女。
その女が今、まるで別人のように、まったく違う肩書きと立場をまとって、ここに立っている。
そんな現実を、白鳥空弥はまだ飲み込めずにいた。
