第7章 運動会
白鳥空弥は、相馬祈のことをあれこれ考える間もなく、先にスマホの着信音に意識を引き戻された。
北斗の通う学校の担任からの連絡だった。
今週土曜に親子運動会を開催するので、保護者は父母そろって参加するように――そんな内容だ。
白鳥空弥は一瞥しただけでスマホを置き、さして気にも留めなかった。
そして土曜の朝7時。
白鳥北斗はリビングのソファにちょこんと座り、通学バッグを抱えたまま、じっと玄関のほうを見つめていた。
太田さんが朝食を運んできても、箸ひとつつけない。
「北斗、先に朝ごはんを食べなさい」
「お腹すいてない」
白鳥北斗はうつむき、小さな手でバッグの持ち手をぎゅっと握りしめた。
太田さんの焼く目玉焼きはいつも火が通りすぎているし、トーストの耳も固い。
そのときふと、前はママがトーストの耳を切ってくれて、卵も半熟気味にふわっと焼いてくれていたことを思い出した。
夜、ママがくれていた小さなブランケットが見つからないと、つい玄関の靴箱を見に行ってしまう。
北斗は、もう一度だけ玄関を見た。
扉は鳴らない。
ママは、もう何日も帰ってきていない。
本当は毎日、こっそり靴箱を確かめていた。
ママの白いフラットシューズは、ずっとそこにある。うっすらと埃をかぶったまま。
前は毎朝、その靴を履いたママがキッチンをせわしなく行き来していた。
温かいミルクを用意して、卵を焼いて、トーストの耳を切り落とす。北斗が固いところを嫌がるから。
今、キッチンにいるのは太田さんだけだった。
白鳥北斗はさらに10分待った末、とうとう電話を手に取り、白鳥空弥へかけた。
「パパ、今日、学校で親子運動会があるの」
「ああ、知ってる。あとでパパが迎えに行く」
白鳥北斗は唇を噛み、しばらくためらってから、小さな声で言った。
「先生、パパとママ、ふたりで来てって……」
電話の向こうで、一瞬だけ沈黙が落ちた。
「お母さんは……出張中だ」
白鳥北斗は黙り込んだ。
ママは出張なんかじゃない。
自分が追い出したのだ――そう言いたかった。
けれど、言えなかった。
「じゃあ……」
声はさらに細くなる。
「じゃあ、祈おばさんを連れてきてくれる?」
白鳥空弥はスマホを握ったまま、すぐには答えなかった。
そのとき不意に、ひとつの考えが頭をよぎる。
林田柊は、いったいどこへ行ったんだ?
彼は太田さんに尋ねた。
「奥様、この2日、帰ってきたか?」
「いいえ」太田さんは首を振る。「奥様、もうすぐ1週間になりますけど、一度もお戻りになっていません。お電話もつながらなくて……」
1週間。
白鳥空弥はスマホを下ろし、窓辺に立った。
胸の内に広がった感情が何なのか、自分でもうまく言葉にできない。
これまでだって、彼に叱られても、冷たくされても、林田柊はせいぜい半日姿を隠すくらいだった。
夜になれば必ず戻ってきた。
だが今回は違う。
本当に、出て行ったようだった。
あの日、会議室で彼女は最初から最後まで、一度も彼を見なかった。
なぜか胸のあたりがひどくつかえる。
けれど、その感覚も数秒で押し殺した。
彼は相馬祈に電話をかけた。
「祈、今日、北斗の学校で運動会があるんだ。来てもらえるか?」
電話の向こうで、相馬祈は一瞬きょとんとした。
だがすぐに笑みを含んだ声で答える。
「もちろん行けるわ。すぐ支度する。北斗くんのこと、ちゃんと一緒に頑張るから」
その目の奥には、かすかな優越がよぎっていた。
これはきっと、自分が林田柊に完全に取って代わる好機なのだと、そう思ったのだ。
