第3章

 翌朝、私は 和栄 に体を揺さぶられて目を覚ました。

 甘いおはようのキスなどあるはずもない。彼はベッドサイドに立ち、ネクタイを締めながら、眉間には昨晩からの苛立ちをそのまま刻み込んでいるようだった。

「起きろ。支度をするんだ。骨髄提供の前に、あのチャリティー晩餐会に連れて行ってやる。以前から行きたがっていただろう。これで文句はないな?」

 私は上体を起こした。頭の芯がまだ痺れたように重い。

 和栄 は私がすぐに動かないのを見て、昨日のことで拗ねているのだと勘違いしたらしい。

 彼はわざとらしく溜息をつくと、鞄から取り出した書類を無造作にナイトテーブルへ放り投げた。

「晩餐会に行く前に、これにサインしておけ」

 ちらりと視線をやる。離婚届だ。

 和栄 の口調は、それが当然の理であるかのように響いた。どこか上から目線で、施しを与えるかのような響きだ。

「みどり の情緒が不安定なんだ。医者も言っていたぞ、手術前は精神を安定させなきゃいけないってな。彼女はずっと僕と一緒にいたがっている。もちろん……これはあくまで手術を成功させるためだけの措置だ」

 私が黙り込んでいると、彼は声を和らげ、ベッドの縁に腰を下ろして私の手を軽く叩こうとした。だが、私はそれを表情一つ変えずに避ける。

 行き場を失った彼の手が空中で止まり、気まずそうに引っ込められた。声色が硬くなる。

「佳代子、わきまえろ。これは単なる形式上のことだ。骨髄提供が済んで、みどり の手術が成功すれば、いつでも再婚できる。晩餐会に連れて行ってやるんだから、お前も少しは譲歩すべきだろう?」

 まただ。

 飴を一つやるから、先に平手打ちを甘んじて受けろという、いつもの理屈。

 この紙切れ一枚のために泣き叫んでいたかつての 佳代子 は、もう死んだのだ。

 今、目の前の書類を見ても、条項の不備ばかりが目に付く。

「ペンは?」

 私が尋ねると、和栄 は明らかに虚を突かれた顔をした。私を宥めるため、あるいは道徳心に訴えて丸め込むために用意していた言葉の数々が、喉元で詰まったようだ。

「……条項を、確認しないのか?」

「必要ないわ」

 私はペンを取り、その紙の上に淀みなく 中城佳代子 の名を走らせた。

「早く終わらせてくれれば、それでいい」

 会場へ向かう車中、和栄 はバックミラー越しに何度も私の様子を窺っていた。

 会場はロンドンの法曹界や財界のトップが集う、華やかな社交の場だった。

 到着して間もなく、和栄 の携帯が震えた。画面を見た瞬間、彼の顔色が変わる。みどり 専用の着信だ。

「みどり の具合が悪いそうだ。泣き止まないらしくてな」

 和栄 は通話を切ると、苛立ち紛れに蝶ネクタイを緩めた。

「ビデオ通話で宥めてくる。お前はここで待っていろ。勝手に動き回るなよ、恥をかかせるな」

 言い捨てると、彼は用意されていたシャンパンを私の手に押し付け、VIP専用のラウンジへと足早に消えていった。

 冷たいグラスを握りしめ、喧騒の中に立ち尽くす。彼の背中が遠ざかっていくのを見つめながら、ふと意識が遠のいた。

 八年前のことを思い出したのだ。

 当時、私は大学の弁論部に所属しており、和栄 は他校のスター弁士だった。

 決勝戦で、彼は鋭い舌鋒で私を追い詰め、完膚なきまでに論破した。

 だが試合が終わるや否や、あの意気揚々とした少年は人混みをかき分け、顔を真っ赤にして私の連絡先を聞きに来たのだ。

 当時の私は、ベケット家に引き取られたばかりの「本物の娘」で、過敏で卑屈で、このきらびやかな世界に馴染めずにいた。

 そんな私の手を取り、この世界へと導いてくれたのが 和栄 だった。

 返信が遅れただけで街中を発狂したように探し回り、私が「好き」と呟けば、限定版のレコードを買うために三時間も列に並んでくれた彼。

 それなのに、どうしてこうなったのだろう?

 彼が みどり と出会ってからだ。

 病弱で、蒼白で、常に誰かの庇護を必要とする妹。

 いつの間にか、私はただ「待つ」だけの女に成り下がっていた。

 コンサート会場の入り口で、紙屑になった二枚のチケットを握りしめて彼を待った。結婚記念日のレストランで、店員が閉店を告げるまで待った。数え切れないほどの深夜、みどり の病室から彼が戻るのを、明かりを一つだけ灯して待った。

 私の人生は、すべて「待つ」ことで費やされたようだ。

 両親が妹に注ぐ愛の余り物を待ち、夫が妹に向ける眼差しの残滓を待ち、息子が叔母に寄せる信頼の欠片を待った。

 だが今回ばかりは、もう待つ気になれなかった。

 口もつけていないシャンパンを通行人のウェイターのトレイに戻し、出口へと踵を返す。

 ドアの前には 和栄 の秘書が控えていた。私が出てきたのを見て、驚いたように立ちはだかる。

「奥様? 中城 先生が、中でお待ちになるようにと……」

「必要ないわ」

 コートの襟をかき合わせ、重厚な扉を押し開ける。冷たい風が吹き込んできたが、それはかつてないほどの爽快感を私にもたらした。

「彼に伝えて。『もう待たない』と」

 あのカプセルが、「期待」という名の病巣をすべて切除してくれたようだ。

 随分と遠くまで歩いてから振り返ると、煌々と輝く宴会場が見えた。ただ、心が軽かった。

 三十分後、ようやく みどり を宥めすかした 和栄 が、不機嫌そうな顔でラウンジから出てきた。

 周囲を見回すが、あるはずの姿がない。

「佳代子 は?」

 彼は待機していた秘書に尋ねた。

「手洗いか? それとも隅で泣いているのか?」

 秘書は奇妙な表情を浮かべ、言葉を選びあぐねているようだった。

「奥様は……もう、帰られました」

「帰っただと?」

 和栄 は信じられないというように声を張り上げた。

「勝手に帰るなんて、どういうつもりだ? 癇癪でも起こしたのか? 泣いて飛び出したのか?」

 彼にとって、それこそが 佳代子 のあるべき反応だった。

 冷遇されてヒステリーを起こし、無視されて泣き崩れ、最後には彼が少し飴を与えれば尻尾を振って戻ってくる。

 秘書は躊躇いつつも、真実を口にした。

「いいえ、先生。奥様は去り際……泣くどころか、その……」

「その、なんだ?」

「とても晴れ晴れとして見えました。まるで……憑き物が落ちて、解放されたかのように」

 和栄 はその場に凍り付いた。手にしたグラスが揺れ、数滴の雫が高価な絨毯に染みを作る。

 ありえない。彼は思った。

 佳代子 が晴れ晴れとするだと? 自分から離れられるわけがないだろう。

 得体の知れない悪寒が背筋を這い上がってきた。それは昨夜、車内で感じた胸騒ぎよりも遥かに強烈だった。

 事態が完全に自分の掌からこぼれ落ちたことを、彼は初めて悟ったのだ。

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