第1章
私は高級料亭の入り口に立ち、祝宴で睦まじく見つめ合う新郎新婦を無表情に眺めていた。
藤原成俊と白無垢を纏った小林詩織が情熱的に視線を交わし、夫婦の契りを交わす盃を酌み交わしている。ヤクザたちの野次が次々と飛び交い、婚宴の会場全体に響き渡っていた。
「成俊様、早く詩織さんと三三九度の盃を交わしちまえ!」
「詩織さん、こいつは俺たち藤原組の最も大事な伝統なんだ、恥ずかしがるこたねえ!」
私の眼差しは氷のように冷たく、この茶番劇を静かに見つめていた。
突如、藤原組の若頭が振り返り、入り口に立つ私に気づくと、その顔は瞬く間に真っ青になった。
彼は慌てふためき、小声で一言叫んだ。「姉貴!」
その呼び声は、静かな湖面に投じられた小石のように、婚宴会場の喧騒をぴたりと止めさせた。ひそひそ話も次第に消え、全員の視線が私へと注がれる。空気は気まずさと緊張に満ちていた。
小林詩織は異変を察し、藤原成俊の背後へ隠れようとする。その手の中の盃は微かに震えていた。
私は落ち着き払った足取りで彼らに向かって歩みを進める。一歩一歩が正確で、揺るぎない。背中の桜と短刀の刺青が、疼くように痛む。それは雨森組織の跡目としての私の証。十六の歳から、私は雨森組織が認めた次期後継者であり、私の面子、私の誇りは全て組織と繋がっている。
藤原成俊は私を見ても、気まずそうな素振り一つ見せなかった。
それどころか、挑発するように小林詩織を抱き寄せ、傲慢に言い放つ。
「詩織が俺たちの伝統的な祝言を体験したいって言うからな。変に勘ぐるなよ、血の契りは交わしてない。藤原組の女はお前だけだ」
目の前にいる、幼馴染であり、親たちの決めた組織間の縁組によって血の契りを交わした男を見つめ、私の心にあった最後の一片の温もりも、この瞬間に凍てついた。
この五年、彼は界隈で好き放題に遊び、愛人を次々と変え、東京の裏社会で私の顔に泥を塗り続けてきた。私が耐え忍んできたのは、ただ二大組織の盟約という重責を背負っていたからに他ならない。
今回、私は背後から木箱を取り出した。中には、藤原家が組織の女に代々受け継がせる和服の帯が入っている。血の契りを交わした際に、藤原の親父殿が自ら私に手渡した信物であり、私が藤原家の嫁であることの象徴だ。
私はそれを、藤原成俊の目の前の卓に静かに置いた。
「今日限りで、私たちの血の契りは破棄する。これからはそれぞれ我が道を行き、貸し借りなしとしよう」
私の声に、一片の震えもなかった。
藤原成俊の顔色が一変し、その目に意外の色がよぎる。彼は低く脅すように言った。
「その言葉、撤回しろ、雨森若菜。血の契りを解くことが何を意味するか、分かっているだろうな」
若頭がすぐさま間に入り、とりなそうとする。
「姉貴、どうかお怒りをお鎮めください。この祝言はただの体裁で、両家の盟約に影響はございません。若はほんの座興でして、真の血の伴侶は姐さんだけでございます」
私は周囲で緊張しながら様子を窺う組員たちを見渡す。彼らの目には、好奇と警戒が満ちていた。
この瞬間、私はもう、堪え忍ぶだけの雨森若菜ではなかった。
「藤原組長」
私は藤原成俊の目を真っ直ぐに見据えた。
「あなたの約束にはもううんざりだ。今回は、本当に終わりにする」
そう言い終えると、私は背を向け、もう二度と振り返らなかった。
背後から、若頭の切迫した声が聞こえる。
「若、早く姉貴を追いかけてください!今度ばかりはただ事じゃありませんぞ!」
藤原成俊の傲慢な返事が聞こえてきた。
「心配するな。こんなこと、前にもなかったわけじゃねえ。数日もすれば戻ってくるさ。雨森組織は俺たち藤原組の加護がなきゃやっていけねえんだからな」
若頭の心配そうな忠告が遠ざかっていく。
「秋倉拓が近頃、東区にえらく興味を示していると聞きます。そして雨森家は丁度……」
私は振り返らず、そのまま祝宴の会場を後にした。
藤原成俊はまるで何の影響も受けていないようだった。彼が私の去りゆく背中を一瞥し、大声で告げる。
「祝言を続けるぞ!雨森若菜のことは構うな。詩織が望むものなら、何だって俺が与えてやる」
小林詩織はその言葉を聞くと、顔に絶妙な驚きを浮かべた。彼女は藤原の和服の袖を掴み、小声で囁く。
「あの帯、見てもいいですか?」
