第2章

 背後から不意に足音が近づいてきた。

「何を見ているんだ?」

 首筋を撫でるような晴貴の吐息。心臓が早鐘を打つ。

 私は咄嗟にスマホの画面を伏せ、彼に背を向けるようにして立ち去ろうとした。

「何でもないわ」と私は答えた。

「友人からのメッセージよ。彼女……夫の浮気に気づいたばかりなの」

 晴貴の手が一瞬、強くこわばった。だが、彼はすぐに平静を取り戻し、いつもの優しい仮面を被り直す。

 彼は私を力強く抱き寄せた。

「千佐」

 低い声が耳元で囁く。

「俺はそんな男たちとは違う。絶対に君を裏切ったりしない。君は俺のすべてなんだ」

 私は瞳を閉じた――そして、唐突に理解してしまった。

 この男はただ嘘をついているのではない。

 ほんの少しの躊躇もなく、息をするように嘘をついているのだと。

 それなのに私は、その甘い言葉を真実だと信じ込み、縋り付いていたなんて。

 胸の奥に鉛のような重苦しさが広がり、怒りと悲しみの境界線を曖昧にしていく。

 晴貴は私をベッドの端に座らせた。

「見せたいものがあるんだ」

 彼はタブレットを起動させた。画面には巨大で美しい建築模型が映し出される――洗練されたライン、威容を誇るガラスのファサードは、まるで未来都市の光景のようだ。

「野宮千佐医学研究センターだよ」

 彼はまるでトロフィーでも見せびらかすように得意げに言った。

「建設費は全額俺が出資した。君の名前を冠したセンターだ」

「産婦人科と生殖医療に特化した施設になる」と彼は続ける。「君がもう一度、安全に妊娠できるように全力を尽くしたいんだ」

 その言葉は、錆びたナイフのように私の胸を抉った。

 脳裏に医師の声が木霊する。

『あなたの体は妊娠に適していません。流産のリスクが非常に高いのです』

 だが、晴貴は子供を熱望していた。子供の話をするたび、彼の瞳は期待に輝くのだ。

「俺たちの子供だ――俺たちだけの、完璧な家族を作るんだよ」

 その「家族」のために、私は数え切れないほどの検査を受け、山のような薬を飲み込み、ホルモン剤の副作用に耐え抜いてきた。

 それが、二人で幸せになるための道だと信じて、歯を食いしばって。

 ようやく妊娠した時、ついに幸せを手に入れたと思った――

 すべてが一瞬にして崩れ去るまでは。

 私を待っていたのは、彼がすでに別の女と未来を築いていたという事実だった。

 今にして思えば、それは私の脳内だけのおとぎ話に過ぎなかったのだ。

 胸の奥に激痛が走る。

 晴貴は私の手を握りしめ、その瞳に真摯な愛を湛えてみせた。

「今度は、最初から最後まで俺がそばにいる。もう二度と、悲しいことは起こさせない」

 彼は私の額にキスをした。

「シャワーを浴びてくるよ。明日は実家で夕食だからね」

 私は無言で頷いた。

 翌日の夕刻、私たちは新城家の屋敷に到着した。

 晴貴は私の手をしっかりと握っている。

「両親も、君に会いたがっていたよ」

 美由紀が真っ先に歩み寄ってきて、私の手を取った。

「まあ、少し痩せたんじゃない? 晴貴ったら、あなたが最近落ち込んでいるって、心配で夜も眠れないそうよ」

 私は引きつった笑みを浮かべた。

 美由紀の後ろから敬太郎が続く。

「あの愚息は他人に無関心な男だが……君に対しては、ふん、まるで奇跡だな」

 夕食の席で、晴貴は私の隣に座り、甲斐甲斐しく料理を取り分けてくれた。

「千佐には最高のものが必要なんだ」と彼は言った。

「俺が一生守ってみせる」

 美由紀が頷く。

「聞いたわよ、千佐さんのために研究センターを建てたんですってね。二十億ドルもかけて。普通なら狂気の沙汰だけど、晴貴は『千佐が健康になるなら十倍払っても惜しくない』って」

 彼らが口にする称賛の言葉の一つひとつが、晴貴がいかに私を「愛し」、いかに「大切にしている」かを裏付ける証拠のように積み重なっていく。

 だが、彼らは誰も真実を知らない。彼らが褒め称えるその男は、とっくの昔に私を裏切っているのだということを。

 私はグラスを手に取ったが、指先は微かに震えていた。

 その時――不意に別の声が響いた。

「家族団欒のところ、お邪魔して申し訳ありません」

 ダイニングのドアが開く。

 私は顔を上げた。

 そこに立っていたのは、姫子だった。

 手にはショッピングバッグを提げ、口元には薄い笑みを浮かべている。

 隣で晴貴が石のように凍りついた。

「姫子」彼の声が低く沈む。

「ここで何をしている?」

 美由紀が眉をひそめた。

「どなた……?」

 姫子は彼女に向かって会釈した。

「晴貴さんの秘書をしております」

 そして彼女はテーブルに近づき、晴貴の横にバッグを置いた。

「シャツをお忘れでしたよ。明日の会議で必要になるかと思いまして」

 晴貴の顔色が瞬時に陰った。

 私の指先は氷のように冷え切り、全身の血液が引いていくようだった。

 もはや、取り繕うことさえできていない。

 夫の愛人が、我が物顔で家に上がり込んできたのだ。

 晴貴の口調が険しくなる。

「姫子、用が済んだなら帰ってくれ。今は家族で食事中だ」

 姫子の笑みは少しも揺るがない。

「もちろんです」

 彼女は一拍置き、ゆっくりと視線を私に向けた。

「新城奥様」彼女は言った。

「そのブレスレット、とても素敵ですね」

 私は無意識に手首に目をやった。

 私の誕生日に晴貴が贈ってくれたものだ――その夜、彼は誓ってくれた。『俺は一生、君だけのものだ』と。

 姫子が手を上げ、手首を露わにする。

 そこには、まったく同じブレスレットが輝いていた。

「私の『夫』がプレゼントしてくれたものと、瓜二つですわ」

 彼女は足を止め、意味ありげな視線を晴貴に流し送った。

 そのブレスレットは、まるで私の頬を思い切り張り倒したかのような衝撃を与えた――鋭く、痛烈に。

 唐突に、自分がとてつもなく滑稽に思えてきた。

 これは挑発などではない。

 これは姫子による、冷徹な宣言なのだ。

 彼女の目には、私などただの笑い話にしか映っていないのだと。

 最後に私に向けられた彼女の眼差し――それは勝利の喜悦に満ちていた。冷酷無比。凱旋将軍のそれだ。

 自分の心が音を立てて砕け散るのが、聞こえたような気がした。

 私は椅子に縫い付けられたかのように、身動きひとつ取れずにいた。

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