第3章

 姫子は身を乗り出し、私の耳元で甘ったるい声を潜めた。

「千佐、私が妊娠してるって知ってるでしょ? 赤ちゃんを亡くしたのは本当に残念ねえ。……でもまあ、晴貴もよく言ってたじゃない? あなたは精神的に脆すぎるから、母親には向いてないって」

 私は顔を上げた。彼女の唇には、確信に満ちた勝利の笑みが張り付いている。まるで「もうあなたの負けよ」と宣告するように。

 私は無言で腕を振った。

 ――パンッ!

 乾いた音がレストランの空気を切り裂く。

 姫子は頬を押さえ、驚愕に目を見開いた。

 彼女は反射的に手を振り上げ、私に打ち返そうとする——

 だが、横から伸びてきた晴貴の手が、彼女の手首を荒々しく掴んだ。彼はそのまま力任せに腕を払い、彼女を突き飛ばした。

 バランスを崩した姫子は、派手な音を立てて床に倒れ込む。

 乱れた髪の間から覗く顔には、私が叩いた赤い手形がくっきりと残っていた。

 姫子は彼を見上げ、その目に信じられないという色と、傷ついたような怒りをたたえた。唇を噛み締め、みるみるうちに涙が溢れてくる。やがて彼女は身を翻し、よろめきながらレストランを飛び出していった。

 帰りの車中、私は一言も発しなかった。

 沈黙を破ったのは晴貴だった。

「あいつ、君になんて言ったんだ? 何も信じるな。明日、あいつを解雇する」

 私はただ淡々と答えた。

「何でもないわ、ただの誤解よ。……明日は病院で再検査があるの」

「俺も一緒に行く」

「必要ない」

 彼は数秒間じっと私を見つめていたが、やがて短く頷いた。

 翌日、私は病院へと足を踏み入れた。

 寛貴がすでに待ち構えていた。

「手筈は整っている。千佐が手術台に上がった直後に、大量出血と心停止を記録する。その三分後、準備していた裏口ルートを通って搬送される手はずだ。そして、我々は君の死亡を宣告する」

 私が頷き、ふと視線を向けると——廊下の隅で、晴貴が姫子を抱き寄せているのが見えた。

 彼女は彼のシャツをきつく握りしめ、計算され尽くした震え声で訴えている。

「晴貴、心臓がすごく早いの……赤ちゃんに何かあったらどうしよう? 私、怖くて……」

 彼は彼女を支え、言った。

「検査すればわかることだ。俺がついてるから大丈夫だ」

 私は呆然と立ち尽くした。

 私が妊娠六ヶ月だった頃、彼がそんな優しい声で私に語りかけたことなど、一度としてなかった。

 姫子は彼の肩に頭を預け、甘えるように囁く。

「ねえ晴貴、あの研究センターのことなんだけど……私の名前に変えてくれない?」

 彼は眉をひそめ、数秒の沈黙を落とした。

「いや、あれは千佐のためのものだ」

 姫子は顔を上げ、その瞳に悲しげな光を宿してみせる。

「でも、言ってたじゃない……私との子供こそが、本当に欲しかった子だって」

 彼女はそこで言葉を切り、さらに声を和らげた。探るような、慎重な響きで。

「あの人の子供はいなくなってしまったけど、私のお腹にはこの子がいるのよ? そうすれば、この子が大きくなった時……自分が望まれて生まれてきたんだって、胸を張れると思わない?」

 晴貴の喉仏が上下した。

 そして——彼は、頷いた。

 頭から冷水を浴びせられたような感覚だった。

 彼が私に与えたすべてのもの、それすらも彼女は奪っていくのだ。

 私の負けだ。完膚なきまでに。

 明日、私は消える。

 永遠に。

 私は踵を返し、洗面所へと向かった。ドアを押し開けようとしたその瞬間、白い手がドア枠を塞いだ。

 姫子が私の前に立ちはだかっていた。

「全部聞こえてたでしょ? 彼があなたのために私を叩いた——それが何? 結局、最後に彼の隣に立つのは私なのよ」

 彼女は顔を近づけ、嘲るように続けた。

「彼はね、ああいう公の場で私が騒ぎを起こすのが嫌いなだけ。二人きりの時は、私に大声を上げたことなんて一度もないわ」

 私は彼女の瞳を凝視したまま、何も言い返さなかった。

「私が妊娠してるんだから、彼が私を優先するのは当然じゃない? あなたが流したあの子供、あなたにとっては意味があったかもしれないけど……彼にとってはただの『不運』でしかなかったのよ。『かけがえのないもの』なんかじゃなくてね」

 私は指先が白くなるほど拳を握りしめたが、反論はしなかった。

 なぜなら、彼女の言葉が真実だと知っていたからだ。

 姫子の顔に、歪んだ優越感が広がる。

「ああ、そうそう」

 彼女は声を潜めたが、その一言一句は私の急所を突くために研ぎ澄まされていた。

「彼、私たちの結婚式の準備を進めてるの。モルディブでね。……ほら、すぐにあなたに電話がかかってくるはずよ」

 言い捨てて、彼女は去っていった。

 予言通り、私の携帯が震えた。

 晴貴の声には、罪悪感が滲んでいた。

「千佐、すまない。二、三日海外へ行かなきゃならなくなった。会社で急なトラブルがあって」

 私は携帯を握りしめ、強張った声で言った。

「……行かないで、いられない?」

「千佐——」

「仕事が大事なのはわかってる。でも……」私は目を閉じた。

「晴貴、今、どうしてもあなたがそばにいてほしいの」

 電話の向こうで、数秒の沈黙が流れた。

「愛してるよ。約束する、長くても二日だ」彼の声が甘く、優しくなる。

「片付いたらすぐに戻るから。いいな?」

 通話が切れた。

 暗くなった画面を見つめ、ようやく私の瞳から涙がこぼれ落ちた。

 私は薬指から指輪を抜き取り、小箱に収めた。

 そして、配送手配を済ませる。——七十二時間以内に、晴貴の手元に届くように。

 翌日。

 モルディブのプライベートアイランド。

 海風、降り注ぐ陽光、白い花冠。

 晴貴は波打ち際に立ち、ウェディングドレスを纏った姫子を見つめていた。彼女は彼の手を取り、瞳を潤ませながら微笑んでいる。

 晴貴は指輪を手に取り、彼女の指にはめようとした。

 その時、彼のポケットで携帯電話が短く震えた。

 彼は動きを止め、眉を寄せて電話に出た。

 受話器の向こうから、低く、重苦しい声が響いた。

『深くお詫び申し上げます。……野宮千佐様が、四十五分前、術後の合併症により息を引き取りました』

 指輪が晴貴の指から滑り落ち、白い砂の上に音もなく落ちた。

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