第4章

優子視点

彼は明らかに虚を突かれた様子で数歩後ずさったが、すぐに平静を取り戻した。

「おや? 今夜は少し毛色が違うな」

彼の声には愉悦が滲んでいた。

「起きている時のほうがスリルがあって面白いかな?」

「この変態!」

私はベッドから飛び起き、半狂乱で彼に掴みかかった。

「その正体、暴いてやるわ!」

激しい揉み合いの末、私の指がマスクの縁を捉えた。

「よせ――」彼は制止しようとしたが、もう手遅れだった。

マスクが剥がれ落ちた瞬間、月明かりがその顔を照らし出し、私は息を呑んだ。

加藤健吾。

純一が勤める保険会社の社長。会社のイベントでスピーチをしていたあの冷静沈着な男。財界では「氷の帝王」と呼ばれるやり手だ。

初めて彼を見たのは、会社の新年会でのことだった。壇上でスピーチをする姿――スーツを着こなし、端正だが冷ややかで、その目つきは氷のように冷たく鋭かった。純一は興奮気味に私に教えてくれたものだ。「あれがうちの社長、加藤健吾だよ。三十歳で社長に上り詰めた天才なんだ」

そして今、その「天才社長」が私の寝室に立ち、あろうことか私を暴行した直後なのだ。

「加藤健吾!」私は金切り声を上げた。「あなただったのね、この人でなし!」

健吾は恥じ入ることも狼狽することもなく、ただそこに佇んでいた。乱れた衣服を整えるその表情は、凍り付いたように冷静沈着なままだ。

彼は床からマスクを拾い上げると、まるで何事もなかったかのように淡々と着け直した。

「思ったより賢いようだな」彼の声は冷静さを取り戻していた。「だが、それで何かが変わるわけではない」

「変わらないだって?」私は怒りに震えながら詰め寄った。「あなたたちは獣ね、私を辱め続けて……! これは犯罪よ!」

健吾は鼻で嗤った。「犯罪、か。優子、自分の立場というものを理解したほうがいい」

「立場って何よ? 警察を呼ぶわ! あなたの正体を世間に公表してやる!」

「警察?」健吾の眼光がいっそう鋭さを増す。「誰が信じるとでも? ただの主婦が、著名な社長を告発したところでな。証拠はあるのか?」

「証拠なら……」監視カメラのことを口にしかけた瞬間、ハッとした。今夜の停電だ。あれで録画データは飛んでしまっている。

健吾は私の思考を読み取ったかのように、唇を嘲笑の形に歪めた。

「何もないな、優子。だが私には……」彼が一歩踏み出すと、その威圧感に押されて私は後ずさった。「君と家族を、この世から抹殺するだけの力がある」

「脅すつもり?」

「事実を述べているだけだ」健吾は冷淡に続けた。「純一が守ってくれるとでも? あいつは君が想像しているよりも、はるかに脆い男だ」

恐怖の波が押し寄せたが、私は無理やり背筋を伸ばした。「あなたなんか怖くない」

「怖くない、だと?」健吾は冷笑した。「怖がるべきだな。君は自分が何に巻き込まれたのか、まるで理解していない」

彼は踵を返してドアへと向かい、ドアの前で足を止めた。

「今夜起きたことはすべて忘れるのが賢明だ」彼は振り返らなかった。「手に負えない結末を招くような真似はするな」

「待って!」私は背中に向かって叫んだ。「どうして? どうして私にこんなことをするの? 私があなたに何をしたっていうのよ!」

健吾は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。逆光の中、その瞳の奥の色は読み取れない。

「君が純一と結婚したからだ」彼は言った。「それが、君の原罪なのだよ」

「どういう意味? あなたは――」

「もういい」健吾は冷ややかに言葉を遮った。「すべてが始まったばかりだ、優子。最後まで持ちこたえられることを祈っているよ」

言い捨てると、彼は闇の中へと消えていった。私は寝室に一人取り残され、ただ震えることしかできなかった。

翌朝。私は落ち着かない気持ちで朝食のテーブルについていた。昨夜の健吾の言葉が、今も脳裏にこびりついて離れない。

奇妙なことに、純一はいつも通りの様子だった。何ら変わったところはない。優しくコーヒーを淹れてくれ、何事もなかったかのように私の額にキスをした。どうやら健吾は、昨夜私に見つかったことを彼には話していないらしい。

「今夜は遅くなるかもしれない。大事なクライアントとの打ち合わせがあってね」純一はブリーフケースの中身を整理しながら言った。

その時、絵麻が突然激しく咳き込み始めた。小さな顔は真っ赤で、明らかに熱がある。まだ生後五ヶ月の娘は、私の腕の中で火がついたように泣き叫んだ。

「病院に連れて行かなきゃ」私は娘を抱きかかえた。

「二人とも、車で送るよ」純一がブリーフケースを置いた。

「いいえ、結構よ。あなたは仕事に行って」私は断った。彼とは一秒たりとも一緒にいたくなかったからだ。

市立病院の小児科病棟。明るい診察室に、検査結果を手にした医師が入ってきた。

「お嬢さんはただの風邪ですが」若い女性医師が言った。「念のため行った血液検査で、お嬢さんはO型でした。何かご質問はございますか?」

心臓が凍りついた。恐ろしい考えが脳裏をよぎる。まさか、そんなはずは……。

「あの、血液型のことで確認したいのですが」私はやっとの思いで声を絞り出した。「私はA型で、主人はB型なのですが、子供がO型になることはあるのでしょうか?」

医師は穏やかに答えた。「はい、十分あり得ます。A型とB型のご両親からO型のお子さんが生まれる確率は25%程度です。珍しいことではありませんよ」

「検査の間違いということは……?」私は震える声で尋ねながら、絵麻を強く抱きしめた。この子を守らなければという思いで胸がいっぱいになった。

「血液型検査は非常に正確な検査ですので、間違いはまずございません」医師は優しく微笑んだ。「何かご心配なことがございましたら、いつでもご相談ください」

絵麻は純一の子じゃないの? なら、この子は……。私はその先を考えるのが怖かったが、恐ろしい答えはすでに心の中に浮かんでいた。健吾……絵麻は、健吾の子だというの?

「DNA鑑定をお願いしたいのですが」私は崩れ落ちそうな心を必死に支え、冷静さを装った。「まずは私とこの子の検体を採取してください」

三十分後、DNAサンプルは検査機関へと送られた。結果が出るのは三日後。この三日間を、私はどうやって生き延びればいいのだろう。

小児科を出た後、私は絵麻を抱いて薬局へ向かった。一階のロビーを通りかかった時、見覚えのある背中が目に入った。

純一だ。

クライアントに会うんじゃなかったの? どうしてここに?

心臓が早鐘を打つ中、私は柱の陰に身を隠し、純一の様子を窺った。彼は金髪の若い男と、不自然なほど近い距離で立っていた。その男は整った顔立ちをしており、二人の距離感は明らかにただの友人同士のものではなかった。

嘘でしょう……まさか……。

「直樹、本当にここで誰にも見られないだろうな?」純一が低い声で尋ねた。

「大丈夫だって、純一」直樹と呼ばれた男は、甘えるような声で答えた。

純一? 全身の血が瞬時に凍りつき、叫び声を上げそうになった。私は手で口を覆い、耳を疑った。

「優子に見られたら厄介だからな」純一は神経質そうに周囲を見回した。今まで見たこともないような表情だった。

「奥さんは本当に何も知らないの?」直樹が尋ねる。「結構賢そうに見えるけど」

「あの女?」純一は鼻で笑った。その軽蔑に満ちた口調は、ナイフのように私の心を突き刺した。「あいつはただの馬鹿な女だよ。俺が優しく振る舞ってさえいれば、何でも信じ込むんだ」

私は絵麻を取り落としそうになり、目には涙が溢れた。彼は私のことをそんな風に見ていたのか。そんな愚かな女だと……。

「あの女、この後も協力してくれるかな?」直樹が続ける。「前のライブ配信、反応良かったし」

「心配するな、あいつは何も気づいてない」純一は自信たっぷりに言った。「睡眠薬の量も計算済みだ」

胃が裏返るような感覚に襲われ、吐き気がこみ上げた。彼らはまだ、私を傷つけ続ける算段をしているのだ……。

「あの仮面の男、本当にこれからも協力してくれるの?」

「健吾か? もちろんだ」純一は冷笑した。「あいつは俺の家を憎んでいるからな。俺の妻を辱めることができるなら、喜んでやるさ」

健吾の名前を聞いた瞬間、心臓が止まりそうになった。もし絵麻が本当に健吾の子だとしたら、それはどういうこと? この悪夢は、私が想像していたよりもはるかに深く、根深いものだということになる……。

「でも気をつけろよ」直樹が声を潜めた。「俺にはいつも、あいつが純一の奥さんを見る目が変に見えるんだよな。侮蔑とかじゃなくて、もっとこう……」

「よせ、考えすぎだろ」

二人はエレベーターの方へ歩き出した。彼らの姿が見えなくなって初めて、私は大きく息を吐き、全身の震えに身を任せた。

そうだったのか。純一はゲイで、あの直樹と付き合っていたのだ。私は彼らが世間を欺き、金儲けをするための道具――ばかげた偽装に過ぎなかった! 二年間の結婚生活、そのすべてが演技だったなんて! 私はいいように踊らされていたのだ!

だが、それよりも恐ろしいのは……もし絵麻が本当に健吾の子だとしたら……。ああ、考えるだけで気が狂いそうだ……。

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