第1章
娘の由衣は、これまで一度も体操の試合を見に来させてくれなかった。それなのに今回は、星見市への遠征合宿に付き添ってほしいと、あの子の方から言い出したのだ。
「今回の合宿は、お母さんと二人の特別な旅行にしたいの」由衣は言った。「だから、お母さんに来てほしい」
私は少し面食らった。体操教室に通い始めてからというもの、由衣は私に対してどこかよそよそしかったからだ。特に私が抱きしめようとすると、「お母さんのお腹、ぷよぷよしてて嫌」と言って、するりと腕をすり抜けてしまうほどだった。
夫の神谷大輔はすぐに賛成した。「航空券もホテルも手配済みだ。明日出発してくれ」
あまりの手際の良さに、私は口を挟む隙さえなかった。
当時は深く考えもしなかった。きっと彼なりに、私と娘の関係修復の機会を作ってくれたのだと、そう好意的に解釈していたのだ。
まる一週間、彼は何の文句も言わなかった。あの夜、星見市のホテルの一室で、事態が一変するまでは。
窓辺に腰掛けた私のスマホは、バッテリーが切れていた。少し迷った末、私はベッドサイドテーブルに置いてある由衣のキッズ用スマートウォッチを手に取った。今日の出来事を、大輔に伝えたかっただけなのに。
コール音が長く続いた後、ようやく通話がつながった。
「由衣か?」大輔の声がした。「お父さんはいま忙しいんだ。悪いけど切るよ、また後でな」
通話を切ろうとした指が止まる。女の、微かな笑い声が聞こえたからだ。
「誰?」
私の呼吸が止まった。
「大輔?」震える声で呼びかける。
返事はない。聞こえてくるのは、濡れた唇が触れ合う音と、布が擦れる衣擦れの音だけ。
「由衣だ」大輔の声がした。すぐに声を潜めて続ける。「……放っておけばいい」
その笑い声には聞き覚えがあったが、誰なのかすぐには思い出せない。
「恵美さんにバレてもいいの?」
「平気さ」大輔は言った。「由衣がうまくやって、向こうでの滞在を延ばしてくれる。あの子にはプロ仕様のレオタードを買ってやる約束をしたんだ。欲しがっていたブルーの限定モデルをね」
「あなたの家のジム、あの鏡の前でするのって……あたしの家よりずっと興奮するわ」女の声には優越感が滲んでいた。「恵美さんが昔踊っていた姿を見るのが一番好きだって、よく言ってたわよね? 今はどう? 彼女、まだ鏡を見ようとする?」
「あいつの今の身体は……子供を産んでからは、もう……」
「壊れちゃった?」女が食い気味に言葉を継ぐ。
キッズウォッチを握りしめる私の手が、小刻みに震えているのがわかった。
「じゃあ、どうして離婚して私と結婚しないの? 堂々と付き合えばいいじゃない」
「恵美は俺の妻だ」大輔の声色が急に真剣なものに変わる。「それは変わらない。あいつはずっと妻だ。だが、君は……」
私の心に、わずかな期待が生まれた。
彼は一瞬言葉を切り、低く唸るように言った。「君は俺に、情熱を思い出させてくれる。あいつの身体は……確かに、もう元には戻らない。でも君は違う。若くて、引き締まっている」
「最高にセクシーだ」
女がまた笑った。「あのランジェリー、覚えてる? あなたが彼女に買った、Mサイズの黒いレースのやつ。タグも付いたままだったわよ」
覚えている。結婚記念日のプレゼントだ。大輔はそれを、私の「ダイエットのモチベーション」だと言って渡してきた。私はそれを引き出しの最奥に押し込んだ。決して果たされることのない約束を隠すように。
「彼女、もう入らないでしょ?」女の声は甘ったるい蜜のようだ。「でも、あたしならピッタリよ。奥さんが永遠に着られない下着を身につけたあたしが、どんな姿か見たくない?」
「やめろよ……」大輔はそう言ったが、その声に拒絶の色はなかった。
「見せてあげる。奥さんの引き出しで三年も眠っていた下着が、あたしの身体でどれだけ美しく見えるか」
大輔が笑った。聞いたこともないような声で。「お前ってやつは……」
「なによ?」
「小悪魔だよな、まったく」
そして、接吻の音。深く、貪るような音。ベッドの軋みがリズムを刻み始め、大輔の押し殺した息遣いと、女のわざとらしいほど大きな嬌声が響く。彼らは電話が切れていると思い込んでいるのだ。
私はその反吐が出るような音に耐えきれず、通話終了ボタンを押し込んだ。
暗闇の中で、身体の芯から冷えていくのを感じた。あの女の声が耳にこびりついて離れない。不快なほど聞き覚えがあるのに、誰なのか思い出せない焦燥感。
まさか大輔が、私たちの結婚を裏切るなんて想像もしなかった。
私と大輔が出会ったのは大学時代、体育館でのことだった。私はチアリーディング部の先輩たちに囲まれていた。彼女たちは私の動きやウェアの着こなしを、執拗に批判していたのだ。そこへ、野球の練習を終えた大輔が、汗だくで歩み寄ってきた。
「こいつはあんたたちの誰よりも上手い」彼はそう言い放ち、私の手を取った。「少なくともこいつは、他人を貶めて自分を高く見せようとはしないからな」
握られた掌は熱かった。指先に触れる掌の硬いマメは、厳しいトレーニングの証だった。
風が吹き抜け、彼の汗と若草の混じった匂いが鼻をかすめる。頬が熱くなった。
廊下から斜めに差し込む光の中、私は彫刻のように整った彼の横顔を盗み見た。キャンパスのスターである彼が、こんなにも優しい目をすることに初めて気づいた瞬間だった。
それから間もなく、私たちは付き合い始めた。
彼は家族の話をしてくれた。父親の神谷さんには、常に「愛人」がいたらしい。大輔の母はそれを知っていながら、決して暴き立てたりはしなかった。新しい宝飾品を買い、旅行の予定を立て、すべてが順調であるかのように振る舞いながら、陰で一人泣いていたという。
「俺は親父みたいには絶対にならない。愛するのは恵美だけだ。君以外、俺の目には映らない。母さんのような思いは絶対にさせない」
私はその言葉を信じた。
謝恩会の二次会、チア部のキャプテンだった理沙が、銀色のワンピースを着て大輔に近づいた。
誰もが二人はお似合いだと思っていた。けれど大輔は首を横に振り、みんなが見ている中、自分で作った青いワンピースを着た私のところへ歩いてきたのだ。
そのワンピースは完璧とは言い難かった。ウエストのラインも少し歪んでいた。それでも大輔は私の手を取り、耳元でこう囁いた。「君はここにいる誰よりも輝いている」
卒業後、私たちは結婚した。大輔は実家の人脈を使って、私がデザインアトリエを持つチャンスを作ってくれた。私の夢を応援すると言ってくれたのだ。妊娠七ヶ月になっても、私はミシンを踏んでサンプルを修正していた。
由衣を産むとき、私は難産で苦しんだ。分娩室の外で待つ大輔は、顔面蒼白だったという。意識が戻ったとき、彼は私の手を痛いほど強く握りしめて言った。「もう子供はいらない。恵美を失うかもしれないなんて、俺には耐えられない」
由衣が生まれて二年後、大輔は家業を継いだ。彼は書類の束をダイニングテーブルに置いた。穏やかだが、拒絶を許さない口調で。
「恵美、俺を全面的に支えてほしい」
「でも、アトリエで注文を受けたばかりなの――」
「違約金は俺が出す」彼は私の手を包み込んだ。「家のことを頼む。仕事が落ち着いたら、君の個人ブランドを立ち上げよう。最高のスタジオを用意する。君の望むものは何でも叶えるから」
私はテーブルに広げられたデザイン画と、トルソーに掛けられた未完成のサンプルを見つめた。
「……わかった」
彼は生地見本を箱に片付け、私の受賞作品を収納ケースにしまうのを手伝ってくれた。一時的なことだ、由衣が大きくなるまで、大輔の仕事が軌道に乗るまでの辛抱だ、と自分に言い聞かせた。
しかし、一年また一年と時は過ぎていった。箱は書斎から納戸へ、最後には屋根裏部屋へと追いやられた。私の世界は家と学校だけに縮小し、逆に大輔の世界はどんどん広がっていった。友人たちは、金持ちの夫を持って働く必要もないなんて幸せね、と羨んだ。私は笑顔で頷きながらも、心のどこかにぽっかりと穴が開いているのを感じていた。
由衣の出産は、私の体に消えない痕を残した。妊娠線、たるんだお腹、もう二度と着られないサイズの服。
最初は「焦らなくていい」と言ってくれた大輔も、やがて何も言わなくなった。彼は私に触れなくなり、親密な接触も消えた。「仕事が疲れる」「プレッシャーがすごい」と言い訳をした。私はそれを信じた。なぜなら私も疲れていたからだ。育児、家事、そして「完璧な家庭」を演じ続けることに。
窓の外、星見市の夜空に星は見えなかった。私はベッドサイドに座り、眠る由衣の寝顔を見てから、自分の腹部に刻まれた銀白色の筋に視線を落とした。そっと掌を当てる。初めて、羞恥心ではなく、激しい怒りがこみ上げてきた。
彼は私を愛してなどいない。彼が愛しているのは、Sサイズのワンピースを着こなし、華やかな服をデザインし、舞台の上で輝いている少女だったのだ。
スマホがようやく少しだけ充電された。画面が点灯し、新しいメッセージがポップアップする。
差出人は平野真琴。大学の同級生で、かつてデザインの課題で一緒に徹夜した仲間だ。
「恵美、久しぶり。私、今アパレル業界にいるんだけど、信頼できるパートナーを探してるの。大学時代の恵美のデザインセンス、まだ覚えてるよ。一度話せないかな?」
「今は家庭優先なのは知ってる。でも、恵美の才能が埋もれてしまうのはやっぱり惜しいと思って」
その文字列を見つめたまま、私はついに涙を堪えきれなくなった。
