第1章
知佳の視点
「失血が酷い! 血圧、まだ下がってます!」
医師の声が警報のように、薄れゆく私の意識の中で弾けた。
「クソッ! 絶対に助けろ!」
秀樹の怒号だ。
目を開けようとしたが、瞼が鉛のように重い。呼吸をするたび、腹部の傷口が引き裂かれるように痛んだ。
「中島さん、今すぐ輸血が必要です! RHマイナスが少なくとも六単位は!」
「ボス」部下の佐々木の声だ。
「先月東欧から密輸したあの血が――」
「駄目だ!」秀樹が遮る。
「あれは美愛のためのものだ。来月出産を控えてるんだ、万が一の事態は避けたい」
心臓が、ぎゅっと鷲掴みにされた。
「ですが、奥様の容態の方が遥かに危険です!」医師が声を荒らげた。
「逸人も移植手術を終えたばかりで、予備の血が要るんだ!」
「美愛様のご出産まではまだ四週間あります、新たな血液を手配する時間は十分に! 逸人坊ちゃんも経過は良好で、血液など全く必要ありません! しかし奥様は、今すぐ輸血しなければ今夜を乗り切れません!」
死のような静寂。
次いで響いたのは、銃の撃鉄を起こす冷たい金属音。
「黙れ。今ある血でこいつを救え。もし死なせたら、お前も道連れだ」
「つ、尽力します……」
彼は私が死ぬリスクを冒してでも、あの女とその息子の安全を優先したのだ。
聡……私の宝物……お母さん、ごめんね……
暗闇が潮のように押し寄せ、すべてを呑み込んでいった。
*
目を覚ますと、白々しい天井が視界を刺した。
腕を上げる気力すらない。手の中に何か冷たいものが食い込んでいる――私は震える指を、どうにか開いた。
聡の、サッカーのメダル。
金色の表面には、どす黒く乾いた血がこびりついていた。
「お母さん、僕絶対に勝つよ! この金メダル、お父さんの誕生日プレゼントにするんだ!」
聡の弾んだ声が耳の奥で蘇る。それは試合前日の朝のことだった。真新しいユニフォームに身を包み、彼の目は星のように輝いていた。
「僕が一番活躍したら、お父さんも、逸人お兄ちゃんみたいに僕のこと愛してくれるよね?」
ああ、私の可哀想な宝物。
あんなにお父さんに愛されようと頑張っていたのに、あの悪魔が自分の命を狙っていることなど、知る由もなかったのだ。
血塗られたメダルを見つめながら、私は声もなく涙をこぼした。
「聡……私の子……」
息が詰まるほど苦しい。激しい痙攣の波が全身を襲い、私は身を裂かれるような慟哭を上げた。
起き上がりたい。息子を探しに行きたい。しかし腹部の傷が引き裂かれるように痛み、私はベッドに力なく倒れ込んだ。
記憶が、鋭い刃となって脳裏に突き刺さる。
美愛は秀樹の初恋の相手であり、かつて彼が『一目惚れした』女だった。その後別の男に嫁いだはずの彼女は、五年前、病気を抱えた息子の逸人を連れて彼の前に現れた。病気の子を一人で育てるシングルマザーに、ただ同情しただけ。秀樹は私にそう言った。
私はその言葉を、馬鹿みたいに信じ切っていた。
この数年間、秀樹はずっと逸人のためのドナーを探し続けていた。中島組の闇市場での影響力、このZ市の裏社会を牛耳る権力をもってすれば、適合する腎臓など見つからないはずがない。
だが、彼が美愛にこう囁くのを聞いたことがある。
『あんな臓器じゃ完璧とは言えない。俺は、逸人に最も相応しいものを待っているんだ』
彼が待っていたもの。
それは、私の息子の腎臓だったのだ。
突然、ドアが開いた。
秀樹が入ってきた。その顔には、悲哀と罪悪感が張り付いている。
「知佳、気がついたか……神に感謝する」彼はベッドの傍らに歩み寄り、私の手を握ろうとした。
私はありったけの力でその手を振り払った。
「触らないで! この人殺し!」
激痛に耐えながら無理やり上体を起こし、ナイトテーブルの上にあったハサミへと手を伸ばす。こいつを殺す。刺し違えてでも――
だが、彼はあっさりと私の手首を掴み、再びベッドに押さえつけた。
「知佳、辛いのは分かる。だが落ち着け……」低く沈んだ声。
「俺が悪かった。俺が、俺たちの息子を守り切れなかったんだ」
「野口組のクソどもには、既に代償を払わせた。実行犯の指を俺がこの手で一本ずつ切り落とし、ワニの餌にしてやった」
私は彼を死に物狂いで睨みつけた。
「聡は? 聡はどこなの? あの子に会わせて!」
秀樹はふっと視線を逸らした。
「知佳……聡はもう、荼毘に付した」
「何ですって!?」私の声は惨めにひび割れた。
「あの子はまだ……どうしてそんな……」
「お前のためだ」彼が言葉を遮る。
「今の状態のお前に、聡の遺体を見せるわけにはいかない。耐えられないだろう。それに組のしきたりで、死者は早急に埋葬しなきゃならない。敵に目をつけられるからな」
嘘だ! 全部でたらめだ!
遺体を急いで焼いたのは、聡の胸を切り裂き、腎臓を奪った証拠を隠滅するためだ!
最後に一目顔を見ることも、抱きしめる機会すらも、私から奪い取った……!
私はベッドに崩れ落ち、ただ声を上げて泣き叫ぶことしかできなかった。
