第4章

知佳の視点

「やめて――!」私は飛びついた。

 逸人は足を振り上げ、その遺灰を力任せに踏みにじった。

「見ろよ、あんたの息子はただの灰だ。踏み潰されたって誰も気にしねぇよ――」

 私は這いつくばるようにして立ち上がり、行く手を遮る美愛を突き飛ばした。

 彼女は突然悲鳴を上げ、わざとらしく後ろへ倒れ込んだ。

「きゃあっ! 秀樹! 知佳がおかしくなっちゃった!」彼女は床にへたり込み、お腹を押さえた。

「私の子が……助けて……」

 逸人も大声を張り上げた。

「誰か来て! 母さんが殺される!」

 慌ただしい足音が近づいてくる。

 秀樹と晴美が駆け込んできた。その後ろには大勢の客たちが続いている。

 美愛はボロボロと涙をこぼした。

「秀樹……知佳に突き飛ばされたの……私が聡を死なせたから、私と赤ちゃんを殺すって……」

 逸人は私を指さし、声を震わせた。

「俺のことも蹴ってきた! 聡の道連れにしてやるって!」

「黙れ!」私は叫んだ。

「この人たちが先に――」

 パァン!

 私の頬に平手打ちが飛んだ。火の出るような痛みが走る。

 晴美が私を睨みつけていた。

「最低ね! 狂ったの? 美愛は身重だというのに、手を上げるなんて!」

 逸人が突っ込んで来て、私の腹部にある傷口を容赦なく蹴り上げた。

「これは母さんと妹の分だ!」

 激痛が走る。私は床に崩れ落ちた。血が滲み出し、服を赤黒く染めていく。

 客たちが口々に非難し始めた。

「なんて悪辣な!」

「妊婦を突き飛ばすなんて、よくそんな酷いことができるわね」

「中島家もどうしてあんな女を嫁にしたんだか」

 秀樹は青筋を立てていた。私に歩み寄り、冷ややかな声で言い放つ。

「土下座しろ。美愛に謝るんだ」

「絶対に嫌!」

 秀樹は私の髪を鷲掴みにし、無理やり顔を上げさせた。

「なら、ここで跪いてしっかり反省しろ」

 彼はボディガードに手を振った。

「見張っていろ。俺の許可なく一歩も動かすな」

 そして身を翻し、美愛を抱き寄せる。

「病院へ行くぞ……」

 誰もいなくなった。

 私一人だけが、冷たい床に跪いたまま残された。

 私は俯き、震える指先で少しずつ聡の遺灰を拾い集めた。

 床の隙間に踏み込まれた灰は、どうやっても掻き出せない。

 涙が灰の上にこぼれ落ちた。

 ごめんね……聡……。お母さん、あなたの最後の遺灰すら守ってあげられなかった……

――

 どれくらい跪いていたのか分からない。

 膝の感覚はとうに消え失せ、腹部の傷口はまだ血を流し続けている。服はぐっしょりと濡れ、それが血なのか汗なのかすら判別できなかった。

 スマートフォンが震えた。

 秀樹からのメッセージだった。

『知佳、辛いのは分かる。だが美愛を突き飛ばすべきじゃなかった、彼女は妊娠しているんだ。美愛が落ち着いたら、ゆっくり話し合おう。君の好きなレストランを予約しておいた』

 その文面をじっと見つめ、私はゆっくりと口角を上げた。

 ここまで来て、まだ昔に戻れるとでも錯覚しているのだろうか。

 返信はしなかった。ただひたすらに痛みを堪えて立ち上がり、遺灰の破片を慎重にポケットへしまい込む。

 膝からも腹部からも血が滴り落ち、一歩踏み出すたびに刃の上を歩いているような激痛が走る。

 とある控え室の前を通りかかった時、中から荒い息遣いが漏れ聞こえてきた。

 ドアは少しだけ隙間が開いている。

 その隙間から中を覗き込むと――

 秀樹と美愛が、ソファの上で裸のまま絡み合っていた。

「秀樹……赤ちゃんが無事でよかった……」美愛が荒い息を吐く。

「でも、今回の知佳には本当に驚かされたわ……しっかり埋め合わせしてよね……」

 あのクズは彼女の首筋にキスを落とす。

「よく頑張ったな……ご褒美に……あのピンクダイヤを買ってやったよ……」

「それに、この子が生まれたら知佳と話し合って、お前を本邸に住まわせるつもりだ」

 強烈な吐き気が込み上げてきた。

 きびすを返し、一度も振り返ることなくその場を後にする。

 車に乗り込むと、バッグから二つの書類を取り出した。

 一つは離婚届。

 もう一つは、先ほど日村から送られてきた報告書だ。

 運転手に書類を秀樹のオフィスへ届けるよう命じた。

 そして自らエンジンをかけ、この場所から車を走らせた。

 聡、待っていてね。お母さんが必ず、あなたの無念を晴らしてあげるから。

――

 その頃、控え室では。

 秀樹は美愛を抱き寄せ、事後の余韻に浸っていた。

 その時、突然ドアが乱暴に開け放たれた。

 部下の佐々木が血相を変えて飛び込んでくる。

「ボス! 大変です!」

 秀樹は眉をひそめ、不機嫌そうに美愛から体を離した。

「何をそんなに慌てている?」

「奥様が……奥様が離婚をご所望です! 離婚届が残されていました!」

 秀樹は一瞬呆気に取られたが、すぐに冷笑を浮かべた。

「あいつが? 俺の許可なく離婚できるとでも思っているのか?」

 佐々木の顔色はさらに青ざめ、声が震えている。

「それと……もう一つ書類が……」

「何の書類だ?」

「それは……DNA鑑定書です……」

 秀樹の顔から笑みが凍りついた。

「逸人くんは……あなたのお子さんではありません!」

前のチャプター
次のチャプター